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つぶや記 115
新文書

 仏像などの古美術で、室町以後に製作された作品が、国宝になることは絶対にないといわれたころがあります。この世界では室町は新しい時代なのです。
 刀剣類で、「新刀」というのは、慶長以後に製作されたもの。「新新刀」は江戸後期、古刀の鍛錬法による復古刀。さらに「明治新刀」は戊辰戦争時、大急ぎでつくった粗製乱造ですが、まじめに打ったものもあり、姿も古刀に似せた反りのなかなかいいものがあります。これなどは「王政復古刀」とも呼ばれて珍重されています。大事に保存してください。
 ところで下関在住で、金子みすゞ研究で知られる木原豊美さんからめずらしい文書をみせてもらいました。印刷物ですが、すでに1世紀ちかい歳月を経た、まさしく史科なのでした。木原さんの祖父にあたる人が戦前、東京市に勤めておられ、そのころの印刷した文書類がたくさん遺っている。このまま焼却、または散逸させるのもどうかと引取手をさがしたが、どうも敬遠気味だそうです。その中の一部をわたくしがあずかっていますが、それは昭和6年5月の「東京市公報」なのです。その年実施され成功して世界的ニュースになった「世界一周飛行」のとき、永田東京市長が操縦士に託した、モスクワ・ベルリン・パリ・ロンドン各市長あてのメッセージが全文掲載されています。
 和紙に毛筆で文字が書いてあるもの以外、まして紙に印刷したものなど見向きもしない時代は、もう終わりに近づいています。すべて電子に切り替わってしまえば、ペーパーの史科といえども疎かにはできなくなるでしょう。近代文書箱を整備して、「史科」の散逸を防ぎたいものです。
                                    (古川 薫)

つぶや記 114
五月晴れ

 5月になりました。
 大震災に追い討ちをかけるような大雪や大雨など異常気象を思わせる日がつづきましたが、5月を迎えると、長く暗いトンネルを抜け出たという開放感を覚えます。
 わが家のそばの小公園にそびえる八重桜が、五月晴れの空を背景に、満開の花を咲かせていますが、この前の強風に祟られて、爛漫の感じがいまいち冴えないのが残念です。
 広辞苑には「五月晴れ」を「①さみだれの晴れ間。梅雨の晴れ間。②5月の空の晴れわたること。また、その晴れわたった空」とあります。
 旧暦でいう五月晴れと、現代人の言うそれとの季節感のズレはありますが、とにかく源平合戦は旧暦3月24日、巌流島の決闘は4月13日、いずれもグレゴリオ暦になおすと5月、つまりこのごろのリアル・タイムで、その模様を想像するわけです。
 今は風化した錦絵の世界での物語ですが、その日が晴れていれば美しく晴れ渡った空の下で、悲惨な殺戮が展開された事実は遺ります。雪とか、雨の日であるよりも、輝く日の下での人間の流血の行為が、ことさら残酷な場面に感じられてなりません。歴史はこのように非情に皮肉に積み重ねられてきたのだとの感懐を覚えることがあります。
 源平合戦の「紅白」、また武蔵・小次郎の「巌流島」になぞらえる日本人の対決思想が、関門海峡にその淵源を発しているということに気づくのも5月のこのごろです。
                                 (古川 薫)

つぶや記 113
辞典に拾う

 夏目漱石の日記を読んでいたら、「今日、辞書の中でこんな言葉を見つけた」という意味のことが記されていました。以来、わたくしも知識欲旺盛な漱石先生の「顰みに倣い」時に辞典類をめくることにしています。
 こないだ『日本人女性人名辞典』で、長州出身の青木周蔵(松方内閣の外務大臣)の妻となったドイツ貴族エリザベートのことを調べ、それから各項目に目が移っていくうちに、前回お話しした幕末の漢詩人・広瀬旭荘の妻のことが出てきたので、夜の更けるのもわすれて読みふけりました。
 しとやかな美人でしたが、旭荘は暴力をふるう癖があったので、結婚のとき妻に契約書をいれました。もしそれを犯したときは、誓約書を親戚一同に見せることも約束しました。
 やはり旭荘は家庭内暴力をふるいましたが、妻は誓約書を親戚にみせることもせず忍従して、作詩、著作に打ち込む夫を陰でささえ、ついに不治の病にかかりました。旭荘が妻の枕元で号泣すると、「男ハ女房ノ前デ泣クモノデハアリマセン」とたしなめて息を引取ったということです。
 もう少し詳しく、妻の名も知りたいとその辞典を繰りましたが、広瀬姓の項目になく、見つかりません。1000ページもある辞書なので、この稿に間に合いませんでした。こうなると辞典は不便ですな。そのうち、ついでのとき見つかったら報告します。
                                 (古川 薫)

つぶや記 112
旭荘と小次郎

 慶長17年(1612)4月13日は、グレゴリオ暦になおして1612年5月13日にあたります。宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘してから、今年はちょうど400年、下関・北九州両市でいろいろと記念行事が催されています。
 さて、この決闘がおこなわれた日付がはっきりしているのに対し、登場する武蔵・小次郎なる男性は両人とも謎につつまれていて、たしかな生誕地、年齢や素性、経歴も伝説の霧にぼかされています。
 とくに小次郎の年齢が18歳から70歳とかけ離れた推測で、さまざまに語り伝えられてきたのも巌流島七不思議のひとつで、小次郎が悲劇の美剣士になったり、極悪無道の悪漢で、武蔵による仇討ち物語になったりもします。
 幕末、下関に集まった文人墨客のなかに、有名な漢詩人・広瀬旭荘がいます。兄の淡窓は大分にあった日本最大の私塾「咸宜園」を主宰した大学者です。
 旭荘は兄を手伝って咸宜園の教壇にも立ちましたから、長州人の大村益次郎や大楽源太郎も彼の謦咳に接したかもしれません。
 旭荘は『巌流嶼』と題し30行におよぶ五言律詩を詠んでいます。その中に次のような一節があります。現代語に意訳します。
 「昔、巌流という者あり。弱きをいじめ、暴虐をほしいままにす。ひとたび宮本武蔵に遇うや、頭部を割られ、ほとばしる鮮血、淋漓として海峡の潮を染めたり・・・・・・」
 こうなると小次郎が哀れであります。
                                 (古川 薫)

つぶや記 111
死に狂い

 佐賀藩士の山本常朝が遺した武士道の教科書『葉隠』には、有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは別に「武士道は死に狂いなり」という言葉があります。いざとなれば理性を捨てて、狂い死ぬばかりだと教えるのですから、それをナマで実践する人物が周辺にいれば、警戒することになるでしょう。
 葉隠は実は普遍的に通用する教科書ではなかったのです。常朝はこの著書の巻末に「これは若い者に読ませてはいけない」という意味のことを書いています。「死に狂いなり」の狂気が必要とされるのは、動乱の戦国時代、あるいは闘争という極限情況における身の処し方、現代ではさしあたりスポーツの戦いということになりますか。
 維新のイデオローグとされる吉田松陰は、生涯に二十一回の猛烈な行動を起こすと自分に誓い、幕政批判の「狂挙」を実行して、ついに安政の大獄で処刑されました。
 松陰の弟子の高杉晋作は、みずからを狂気にかりたて、志士として27歳と8ヶ月の短い生涯を閉じました。異常事態の中で不可能と思われることを発起し、それをなし遂げるには、葉隠でいう死に狂いの覚悟が必要だったのです。
 妙に難しいことを並べたのは、フィギア・スケートの浅田真央さんが、いつも本番で失敗するのを見て、「この人は技術の訓練だけではく、精神力を養わなければ、トップ・スケーターの座をつづけることはできない」と思ったからです。同じことは卓球の福原愛さんにも言えます。
 すべからず永遠の栄光を獲得したスポーツ選手は、「只今がその時」の瞬間、すべてを忘れた「死ぬ狂い」の境地になれた人であることを、あらためて感じました。 
                                   (古川 薫)

つぶや記 110
源平船合戦

 関門海峡の模擬戦「源平船合戦」が近づいてきました。先帝祭の上臈道中を赤間神宮境内で参観していると、水天門や松の枝越しのわずかな隙間にのぞく海峡を、船合戦の船列が次々と通過して行きます。ひきつづき武者行列が、街を練り歩きます。10万人を超える見物客でごったがえす初夏の風物詩です。
 先帝祭は一大ページェント-。関門海峡で古代と中世を分ける大海戦の末、平家が滅び、幼帝の水死を悼む平家の女官だちが毎年の命日にキラを飾って御陵に参拝するという実話らしいストーリーで、海峡と下関市街をふくむ広大な舞台にくりひろげる野外劇です。
 古典『平家物語』を背景に、このような史劇仕立ての大規模な祭典は、洋の東西を問わぬ希有なもので、世界遺産的な無形文化財といっても大げさではないでしょう。
 さて先日、下関市の邑本稔という人が、源平合戦に登場する「せがい船」のレプリカを製作したというしたという話を、山口新聞で見ました。「せがい」は広辞苑によると、「船の舷外に付き出した船梁(ふなばり)の上に渡した板。艪を漕ぎ、または棹さす所」とあります。ここで艪を漕ぎ、梶をとるのは非戦闘員です。
「水手、梶取ども、うち殺され、斬りふせられ、船底に倒れふためき、叫ぶ声こそかなしけれ」(平家物語)
 義経は海戦の非戦闘員を攻撃する非情な作戦で凱歌をあげたのでした。また義経は長府櫛崎の海賊が献上した「櫛崎船」で海上を自在に駆けまわりながら指揮したと伝えられています。海峡の急潮に適した特殊な構造の船です。日本造船史に名だけの記載はあるが、正体は不明です。そのレプリカをいつか見せてくださいと邑本さんにお願いしておきましょう。                      (古川 薫)

つぶや記 109
偶然ということ

 前回、スピルバーグ監督の『戦火の馬』の話のつづきです。実は映画や小説における「偶然」について考えてみたかったのです。
 ストーリーの面白さが、偶然によって展開されることは周知のとおりです。『愛染かつら』や『君の名は』などメロドラマは、恋人同士が、すれ違いによって、なかなか会えない。その「いらだち」が、エンターテインメントの主要な部分を支えています。擦れ違いも偶然の仕掛けなのです。
 こんどの『戦火の馬』は、可愛がった馬が戦争に徴用される悲劇から出発します。その飼主も戦争に狩り出され、ある戦場の塹壕のなかで、奇しくも、まさに奇しくも愛馬と感動的な再会を果たすという筋です。冷静な映画評論家からは、飼主と馬の再会が、あまりにもつごうよく作られた偶然であり、感動が鼻白むと水をさされているとか。
 メロドラマなどの偶然は、あり得ないと思いながら、そこは約束ごととして、あまりメクジラをたてず寛容に黙認することで成り立っています。
 充分理解しているわけではありませんが、ユングの心理学によると、偶然と思われる事象の深層には「あり得べき」要素、つまりは必然の条件が潜んでいるという。そうであれば、いちがいに偶然を笑えないことになります。
 「相呼ぶ魂」が、到底不可能な障壁を克服して、不思議な偶然をつくりだすであろうことを、信じてもよいのではないかと『戦火の馬』を観たあとでふと思ったしだいです。
                                     (古川 薫)

 つぶや記 108
 映画の題名

  『戦火の馬』というスピルバーグ監督の映画を観ました。久しぶりに映画を観ながら泣きました。原題はWAR HORSE、直訳すれば、「戦争の馬」です。
 軍馬なら MILITARY HORSE ですが、それではちょっとニュアンスが違う。やはり微妙なところで、バランスをとったよい題をつけたものだとカンシンしました。
 映画の原題をいろいろと細工するのは、日本人お得意のネーミング技術でした。傑作はフランス映画の『望郷』です。原題はジャン・ギャバン演ずる主人公の名前そのもの「ペ・ペ・ル・モコ」なのです。当時の日本人の好みからいったらとてもそれで我慢できるものではなかったでしょう。『望郷』の命名は好評で「なんといっても題名がよかった。背景がよかった。そして話がよかった」(猪俣勝人氏)といった称賛をあびたのでした。
 『望郷』は戦前のことですが、戦後でも場所の名をとった原題『ウォータールー橋』は、日本人好みに『哀愁』となってしまいました。これを真似た『君の名は』に、もし原題があるとすれば『数寄屋橋』ですから、これではどうもメロドラマになりません。やはり日本人社会にふさわしいネーミングはあるということでしょう。
 しかし最近は外国映画も原題を尊重するようになり、『ライフ・イズ・ビューティフル』『デルス・ウザーラ』などもさほど気にならなくなりました。こんどの『戦火の馬』は、戦争を戦火と置き換えただけで、バランスがとれたと思ったのです。(古川薫)

つぶや記 107
ニベもない

 「ニベ」という魚がいます。ニベ科の硬骨魚で、南日本、中国の近海に産し、全長90センチ、尾ひれに切れ込みがあり、背は灰青色、腹部は淡色。ウキブクロを振動させて鳴く。そのウキブクロから膠を作る。大要そのように辞典類が説明しています。
 さらに広辞苑をひくと「にべにかわ」という言葉が出てきます。これは「粘着力の強いところから、転じて、他人に親密感を与えること。多くは否定表現で用いる」とあります。ニベもなく断る、というふうに使います。
 先日、ある新聞記事を読んで、その否定表現を、満腔の失望感をもって味わいました。南極海から帰国中の調査捕鯨団のうち、母船・日新丸が下関港に寄港しないことを運航会社から下関市に通知してきたというのです。捕鯨母船・日新丸の下関寄港は、わたくしが知るかぎりでもこの半世紀、下関港の歴史的風物詩でした。戦前・戦後の食糧危機をしのいでくれた南鯨(南氷捕鯨の略称は下関でうまれました)の国内基地としての下関港は、恩恵を受けたばかりでなく、南鯨への貢献度も高く評価されてきたはずです。
 反捕鯨の風圧を押して出港する調査捕鯨団にたいする市民挙げての声援も全国に例のない熱烈なものでした。市のロゴ・マークをクジラと制定したのは、つい先日のことです。「下関で陸揚げした場合、流コストがかかる」という理由で突然の寄港断念とは、まったくニベもない通告です。関係者は泣き寝入りしないでください。
                                     (古川 薫)

つぶや記 106
糞リアリズム

 わたくしが最初中国に行ったのは、文化大革命が収束したころの1972年でした。京劇が観られるという期待が、みごとにはずれたのを憶えています。
 やっていたのは「現代京劇」で、鉄道員が主人公の『紅灯記』が主なだしものでした。例の五人組のひとり、悪名高き江青女子(毛沢東夫人)の指導で演劇改革が進められていたのです。江青は1930年代上海の新劇界で活躍、39年に毛沢東と結婚してから権力の座につき、得意の演劇分野で腕をふるいました。
「酒に酔った楊貴妃がなよなよと媚びを売るような京劇は革命下の人民になじまない」というので、旧京劇を上演禁止にしてしまいました。当時、江青が強権をふるい現代京劇に口出しした有名な話は、『紅灯記』のコスチュームについてでした。主人公の鉄道員がぼろぼろの服を着ているのを見て、彼女が「それは"糞リアリズムだ"」と、演出を叱りつけ、それからは小ざっぱりした作業服を着るようになったそうです。
 "糞リアリズム"というのは、たしか昭和初年ごろ日本の文学界で使われ、徹底した写実主義を貶した言葉であったはずです。わたくしには彼女が吐いた"糞リアリズム"批判が、美と真に関わる問題として面白く、そしていくらかは共感するところがありました。
 実はNHKの大河ドラマ『平清盛』について、兵庫県の知事さんだかが「汚い」と批評したことがニュースになりました。反発したのかどうかわかりませんが、いぜんとして清盛のコスチュームは汚い。ジャンチン女子の京劇改革の話を思い出しながら、『平清盛』を観ています。他意ありません。
                                     (古川 薫)

つぶや記 105
東京の長州人

  こないだ上京したとき、品川弥二郎の銅像をさがして2時間ばかり、東京の街をほっつき歩きました。
 品川弥二郎は吉田松陰の門下、JAの始祖ともいわれる人物です。ことしは国連がさだめた国際協同組合年にあたり、各国で関連の行事が実施されています。山口県では、弥二郎の顕彰活動が始まりました。
 協同組合とは、「消費者・農民・中小企業などが、各自の生活または事業の改善のために組織する団体。消費者組合と生産者組合とに大別される。消費生活協同組合。農業協同組合・事業協同組合など」と広辞苑にあります。毛細血管のように全世界を覆っている協同組合組織は、もともとヨーロッパで発達しました。
 品川弥二郎がドイツ公使のとき、これに着目して、日本への導入に努力、困難のすえ法制化にこぎつけると同時に急死しました。その品川弥二郎の銅像は、都営地下鉄九段下駅の付近、靖国通に面した小公園にありました。明治40年建立、忘れ去られているとはいえ実に堂々たる立像がそびえていました。
 東京にある長州人の銅像といえば、靖国神社境内の大村益次郎は今も健在です。ほかに三鷹の井の頭公園にあった田中義一像は居心地がよくなかったとかで萩市が引取り里帰りしました。
 それにもう一つ東京駅前(丸の内口)の井上勝像。これは鉄道の父とされる人(長州ファイブ)ですが、数年前から姿を消したまま、行方不明です。メディア関係者に話したのですが無視されました。去る者日々に疎し。さもあらばあれ長州人弥二郎の銅像は、がっしりと東京の土に根を張っています。  
                                 (古川 薫)

 つぶや記 104
 愛染かつら

 田中絹代ぶんか館ミニホールでの2月勉強会で、『愛染かつら』を取り上げました。田中絹代主演のこの映画は川口松太郎原作で、以後の映画に多くの示唆、影響をあたえました。
 まず「すれ違いメロドラマ」の典型になったことです。戦後には菊田一夫原作、岸恵子主演の『君の名は』がその代表作ですが、これは1949年のアメリカ映画『哀愁』の模倣で、舞台となる数寄屋橋は、『哀愁』の原題「ウォータールー橋」をもじった翻案映画です。
 
それにくらべて『愛染かつら』は、戦前の1938年(昭和13年)ですから「すれ違いメロドラマ」の元祖の一つといってもよいものです。
 『愛染かつら』は、主題歌で一世を風靡しました。この面でも新時代を画した記念すべき作品でした。勉強会では石川秀さんがSPレコードを再生して、主題歌の解説があり、流行歌の奥深さに感銘しました。
 そしてわたくしが「すれ違いメロドラマ」における「偶然」ということで、少しばかり考察をこころみました。あまりにも都合のよい再会、そのすれ違い、常識ではあり得ない偶然の出会い、執拗なすれ違いが、物語をおもしろくするのですが、その「偶然」について、このごろ「必然」の見方が持ち出され、私たちを煙に巻いています。そんな切り口からメロドラマを鑑賞するのも一興とばかり、このたびは偶然ということを話題にしてみました。よくは分かりませんが、ユングの哲学がいう「共時性」、また「易」やフロイトの深層心理などもからみ、『愛染かつら』のお勉強も複雑怪奇かつ愉しいことであります。   (古川 薫)

 つぶや記 103
 三丁目の夕日

 アメリカからの帰り、機内映画で『男はつらいよ』を観て泣いたという話を、よく聞いたものでした。ずいぶんむかしのことです。
 この映画の第1作が喝采をあびたのは、昭和44年(1969)でした。アポロ月面着陸、ヴェトナム戦争、国内では全共闘が荒れる学園紛争と、卍ともえの様相でしたが、日本経済はようやく高度成長期に入り「昭和元禄」という言葉も飛び出しました。やがて1980年後半から90年代にかけるバブル経済時代への前奏曲が鳴り響くところです。貧しく、いくらかは目先のにぶい善人がたくさんいたころの日本への郷愁だったのかもしれません。
 このごろ『三丁目の夕日』という映画が、鳴り物入りの宣伝で観客を集めています。先日、わたくしは上京しておりましたが、新聞などは地方より東京のほうが、派手だったように思います。物語の背景にあつかわれている東京タワーの地元ということからか、いや人間が無機質になって行くのは、大都会で顕著なので、その面のよき時代への郷愁をあてこんでいるのかもしれないなどと想像をめぐらしました。
 『三丁目の夕日』 に登場するのは、寅さん同様貧しい人たちです。日本人の多くが貧しくて善人だった時代です。主人公は寅さんほどに無知で、わざとらしい諧謔をふりまくのでは
なく、むしろ教養もあり、それでいて底抜けにお人よしで、貧しい生活を懸命に生きているので、喜劇に終わらないリアリティーがあります。平成の氷河時代にふさわしい映画とは、このようなものでしょうか。前作を観ているので、いずれわたくしめも劇場に泣きに行こうかと考えています。     (古川 薫)

 つぶや記 102
 綴方教室

 田中絹代と共演もしたことのある女優高峰秀子が子役で出演し、名作とされる『綴方教室』(昭和13年・東宝東京)という映画があります。東京下町の小学生が書いた26篇の作文(綴方)を映画化したものです。
 高峰秀子と同年代であるわたくしは、学校からの団体鑑賞で、この映画を見たのですが、あれはやはり当然、大人が見る映画であったことを、60年ばかりも後で再見して気付いたのでした。
 当時、生活綴方運動という一種の啓蒙活動がありました。国分一太郎(1912-85)という山形県生まれの教育者、児童文学者が、北日本国語教育連盟を結成、さらに日本綴方の会によって全国展開しました。子供の目で、貧しい家庭の生活を隠さず正直に書くという作文指導で、貧乏は政治の仕組みから生まれるもので、恥じることはないのだと教えました。東北の貧しい人々を励ますことにもなり、多くの日本人に共感をひろげました。その影響もあってのことか思想的な背景はともかくとして、わたくしたちの小学生時代は、週に一時間、「綴方」の必修科目がありました。子供の文章力をやしなう目的のこの国語教育の普及を、ありがたいことだったとこのごろ痛感しています。
 最近、テレビの国会中継で知ったのですが、震災関係の会議の議事録がないことを、野党から追及されています。根本の原因は、多くの日本人の文章力の欠如ではないかと思うのです。
 岩倉使節団の公式記録『米欧回覧実記』は、使節団員の一人久米邦武による名著ともいうべき報告です。ひとえに文章力によることですが、同時に自己の職務にたいする情熱のしからしむる成果でしょう。政治家も官僚も、一見を強くお奨めいたします。   (古川 薫)

  つぶや記 101
  海峡は時限爆弾

 下関市出身の田中絹代も藤原義江も、ふるさとを遠く離れて活躍し成功した人たちの望郷をさそうのは、美しい関門海峡の景観でした。
 海峡はそんなにも美しい風物ですが、同時に二つの海洋を結ぶ運河としての現実的機能を備えています。「連洋運河」はその利害をめぐって戦場と化したことが世界史に記録されており、関門海峡とスエズ運河がそれです。
 戦争の原因はいずれも運河の封鎖によるものでした。幕末の攘夷戦は、長州藩による関門海峡の封鎖を開場しようとする英・仏・蘭・米による武力行使です。スエズ戦争(1956年)エジプトによるスエズ運河封鎖に対するイギリス・フランス・イスラエル連合軍の攻撃ではじまりました。第2次中東戦争です。
 話はいきなり新しくなりますが、ことし1月はじめイランの核問題をめぐる制裁措置でイラン産原油の輸入禁止が実施された場合、ホルムズ海峡を封鎖することをイラン当局がほのめかしていると報じられ、米国が「対応した行動を起こす」と言明したそうです。対応した行動とは武力行使であり、「ホルムズ戦争」の勃発を意味しているのです。
 ホルムズ海峡というのは、あまり知られていませんでしたが、ペルシャ湾とアラビア海とを結ぶ海峡運河で、原油輸送の世界的大動脈ですから、この封鎖はただことではありません。日本にも影響するなどの次元どころか、おそらく核を保有するイランと米国の正面衝突となれば核戦争の危険も予想されます。
 風光明媚な海峡は、核の時限爆弾をも抱えているのだという恐ろしい話、関門海峡は関わりなしと安心もしておられません。(古川 薫)
 

 

 つぶや記 100
 1億総ペダンティスト

 いわば自然体で、うつむき加減でやってきたつもりの「つぶや記」も100回を迎えました。新聞コラムの名手といわれた人が、「ミカン箱の上に立ったつもりで」と、書き手の立ち位置を説いていたのを記憶しています。「君らは知らないだろうから教えてあげる」といった思い上がりはいけないと教えているわけです。
 わたくしは新聞1面のコラムで「つぶや記」の勉強もさせてもらっています。新聞社きっての書き手が筆力を競う看板コラムですから、読む価値のある文章であることは間違いなく、ミカン箱の上からの定点観測を感得できる考現学的時事エッセイでもあります。知識として教えられることも多いのですが、最近各紙のコラムの調子が、古典その他の文献から言葉を引いて、ものの見方、考え方を述べるといったていの内容が多くなった気がしています。
 つまり博覧強記ぶりを競っている感じがあります。それはそれで面白く、勉強もさせられるのですが、度を超すとペダンティック(衒学)な嫌らしさに陥ってしまう。数十巻の重く分厚い百科事典を繰らなくても、このごろはインターネットという文明の利器が普及して、ヤフーだとかグーグルとかの電子エンサイクロペディアが無料で気軽に引けます。1億ペダンティスト時代の到来ですか。新聞のコラムに衒学的気配がただよいはじめたのも、どうやらそれを反映しているように思えてならないのです。他人の言葉でなく、自分の言葉で、後世のコラムニストがそれを引用したくなるような創造的文章を期待するということで、「つぶや記」子の自戒もこめて、100回の辞とします。    (古川 薫)

 つぶや記 99
 反省と非難と

 このたびの福島原発事故について、事故調査・検証委員会の報告に衝撃を味わいました。思わず怒りさえ覚えるのであり、その「報告」を伝える文言が非難調になり、その非難の矛先が関係する個人に向けられるということも、成り行きということかもしれません。
 非常事態を迎えた人為現象の最たるものとしては、例えば戦争があります。そこにはあらかじめ想定していた状況と、従来思いもつかなかった事態が渾然として現れるのであり、それへの対処の方法が、間違っていたことが後になって判明してきます。日露戦争終結後、作戦の誤りが次々と指摘されて行きます。旅順要塞攻撃だけでなく、奉天大会戦でも、作戦齟齬の責任は、大本営にも現地総司令部にもあったわけで、事後その責任を隠蔽したり、他に転嫁したりの軍人らしくない言動も見られました。
 神でない人間に完全無欠な行動を期待することはできないので、誤りは率直にみとめ、反省して未来に備えようという「検証」を試みたのが、谷寿夫中将『機密日露戦史』でした。
 これは公刊されたのではなく、士官学校の作戦教育のいわば教科書だってのです。その機密文書が第二次大戦後、公開されたのでした。NHKの大河ドラマ『坂の上の雲』の特に陸軍に関しては、この『機密日露戦史』を、資料として、しかも個人的非難の史観で書かれた小説を脚色したしろもので、史実に知識のある人々からは、不満の声もあがっています。テレビ・
ドラマのことですから、あまりメクジラ立てることもありませんが、原発事故をめぐる検証が、非難でなく反省でなければ、建設的な意味を持たないという教訓は浮かんできます。    (古川 薫)

 つぶや記 98
 マニフェスト

 先般、北九州大学の公開講座で乃木希典のことを話しに行きました。私が話している途中、真ん中あたりの席に陣取った初老のご婦人数人が、声高に私語を始めました。
 しばらく経ってもやまないので、私語をやめてくださいと注意しました。座がしらけるんですね。たいていの場合、がまんするのですが、ひどい時には怒りをもって、言ってやります。
 後でわかったのですが、その人たちは、わたくしが大学側の要請であらかじめ配布したレジュメの記述と、話の内容が一部違っていることを指摘して騒いでいたということでした。
 大学では、学生が受講を選択する参考にシラバス(講義実施要項)を作成しますが、公開講座で配るレジュメは、シラバスなどではないので、話が脱線して横道にそれることはあり得ると、わたくしは考えているのです。それにどちらかといえば、脱線するくらいが話は面白いはずです。しかし世の中にはそんなことが許せない人もいるんですね。だからこのごろは、事前に脱線のことも予告することにしています。
 さて、ところでこのごろ、ニュースで「共産党宣言」をさすものだったのを、当世では選挙で政党・候補者がかかげる具体的な公約の意味を、ハイカラな言葉でだれかが言いはじめたらしい。
 公開講座のレジュメに文句をつけるほどですから、政党のマニフェスト違反は大問題でしょう。昨今はマニフェスト訂正が頻出、紛議をかもしています。これからは「変更の可能性あり」と「マニフェスト」の末尾に小さく入れておいたほうがよろしいのではありませんか。  (古川 薫)

 

 つぶや記 97
 作家とふるさと

 昨年の暮れ、韓国の釜山文化財団主催の文学フォーラムに招かれ、行って参りました。わたくしが田中絹代ぶんか館名誉館長で、日本ペンクラブ所属の作家として著作活動をつづけていることからの出席要請であったようです。
 釜山市と下関市は地政学的には一衣帯水の位置にあり、姉妹都市契約を結んだ関係で、早くから交流がはじまっていますが、釜山という実質地域をふまえた文学フォーラムは、初めての試みです。
 あちらが用意したテーマは「文学と出版の海外進出に対する可能性を模索する先進事例発表」というのと、べつにセッション・プログラムとして「文学と故郷、地域文化のコンテンツとは」および「作家と文学館」というのでした。パネラーは韓国・中国・英国・日本の4か国から参加。会場を変え丸2日間におよぶ熱のこもった討論となりました。釜山の人口350万。われわれの目から見ればうらやましい人の数です。文化活動もさぞかし盛んであろうと思ったのですが、現状は意外でした。ソウルへの一極集中による地方文化の不振は、わたくしたちの抱えている東京一極集中の問題と似ています。
 休憩時間中、釜山文化財団代表理事・南松祐(Nam,Song Woo)氏とも歓談しましたが、これを契機にお互いの道をひらいて行こう、いずれ釜山か下関で再会しましょうということにしました。実現の機会を待つことにします。
 芸術文化にかぎらず、日韓交流は大事な命題です。領土問題など国家間の厄介な問題はありますが、民間外交による友好親善が解決への近道にもなるのではないか。2日間の文化交流でしたが、そのことを実感いたしました。   (古川 薫)

 

 つぶや記 96
 新年武装の登城

 長州萩城で、新年の秘儀がおこなわれたことは、つとに有名な話になっていますが、どうやら史実ではないらしいのです。
 元日、萩城の大広間。上席家老が殿様の前にうやうやしく進み出て、「いかがでござりましょうや、今年こそは」と言上する。即座に殿様答えて曰く。「いや待て、時期尚早である」
 藩史への公式記録などもってのほかと厳重に秘密を守ったとしても、だれかが私的な記録を作って後世に伝えたはずですが、それらしい形跡はまったくありません。
 薩摩は早くに「チェスト!関ヶ原」(関ヶ原を忘れるな)という剣術示現流の掛け声となり、幕府からひどく咎められて、慌てた藩が詫びの使者を江戸に送ったことは事実らしいのですが、いかにも陽性な薩摩隼人の気質をあらわした話であります。とすれば萩城のは陰湿な長州人気質をあらわしていることになります。陰湿というのはあまりうれしくありませんね。
 関ヶ原の理不尽な戦後処理に関連して、幕府にたいする長州人の怨念が、倒幕のエネルギーになったのは確かですから、萩城の新年秘儀はまことによく出来た話です。
 幕府への対決姿勢をあきらかにした文久3年(1863)の元旦、群臣が甲冑に身をかためて登城したことは、『防長回天史』にも書かれています。秘義話の源流はそれかもしれません。
 ひるがえって、皆さま今年の元旦はいかがでござりましたか。首相を先頭に、増税々々と勇ましい掛け声の響きわたる中で迎えるお正月であってみれば、無辜(むこ)の国民たる者、甲冑を着て雑煮を食べたい心境、それは史実であります。 
                                        
(古川 薫)

 

 つぶや記 95
 「暴」の年

 誰が決めるのか恒例により今年1年を表す漢字が「絆」となりました。3・11震災のときの合言葉になったことにちなむもののようです。禍々しい災害の記憶を刻むにしては、肌ざわりのよい漢字です。
 テレビを見ていたら、漢字の本家中国で道行く人々に、同じ趣旨の漢字を書かせていたのですが、まずは「貴」と出ました。瞬間、あれと首をかしげましたが、すぐに「騰貴」という言葉を思い出しました。物価高をなげく庶民の1年間をストレートに表現しています。
 「難」というのもありました。超高速h鉄道の大事故や水害など、半分は人災というべき社会現象に対する人民の悲しみや怒りが、その漢字にこめられています。曖昧にオブラートをかぶせた字を持ってくるのではなく、中国の民衆が即物的に嘆き、悲しみ、怒る感情を表現しているのに比べれば、日本人はまことに楽天家であります。
 むかし「退却」のことを「転進」などという言い換え語を発明した日本人の得意技で、そこには現実をまともに受け取らず、できれば傷の痛みを少しでも誤魔化そうとする心理が働いているようにも感じられます。
 そこで中国人の顰にならって、ことしを表す漢字を「暴」としてみました。大地震、大津波と自然が暴威をふるった年でした。
 そして人類が大自然から盗み出し、その扱い方も充分にはできない幼稚な技術、知識で核を弄んだ罰としての悲惨な被害に曝されているのも自然の暴威です。情緒的な漢字では言い表せない現実認識としては、「暴」以外にあるまいと思うのですがいかがでしょうか。 (古川 薫)

 

 つぶや記 94
 猫の「ポーちゃん」

 晩年、田中絹代は「ポーちゃん」と名づけた一匹の猫を可愛がっていました。このごろ女優が飼う猫といえば、外国種の血統書付きの高価なお猫さまなのでしょうが、絹代さんが飼っていたのは、拾ってきた雑種の日本猫でした。そこが好ましいですね。
 1977年(昭和52年)3月、67歳で不世出の女優田中絹代永眠。さて主人亡き後、ポーちゃんはどうしていたかといえば、「田中絹代の忠犬ハチ公」と揶揄されても気にせず、献身的に尽くした仲摩新吉が引取って育てました。ポーちゃんは、この男性のもとで、幸せな一生を終わったのでしょう。
 時間があれば、「女優と猫と男の話」を短篇小説にしたいと、以前から構想だけは練っているのですが、まだ果たしていません。
 ところできょうは猫の話です。例によって、広辞苑を引きと、実にくわしく説明してあります。興味をおぼえ、それではとわが国初の本格的「普通語辞典」として発行された大槻文彦著『言海』を引き、読みやすく書き換えるとこうなります。
 『・・・・・・人家に飼う小さな獣(けもの)なり。温順にして馴れやすく、またよく鼠を捕う。しかれども窃盗の癖あり。形、虎に似て、2尺に足らず。性、睡りを好み、寒を恐る。(略)その瞳、朝は丸く、次第に縮みて、正午は針の如く、午後はまた次第に広がりて晩は再び玉の如し。暗処にては常に丸し」
 こんな愉しい辞書ができた時代が懐かしいですね。それは1889年(明治22)のことでした。            (古川 薫)

 

 つぶや記 93
 大河ドラマのウソ

 大河ドラマ『江』が終わりました。その内容に荒唐無稽なウソ話が仕組んであると、有識者間での非難ごうごうは、毎度のことです。しかし、わたくしは面白く観ました。
 民放の『水戸黄門』にそんな非難が起こらないのは、娯楽作品だと承知しているからで、NHKのドラマだから、歴史の教科書のように内容が整えてあるはずだというのは誤解です。
 森鷗外はそれを「歴史離れ」と「歴史其儘(そのまま)」としました。後者は史実を改竄しない(虚偽の資料を使わない)という基本的ルールを踏まえる歴史小説の立場です。さればNHKの大河ドラマは「歴史其儘」であるかというと、なかなか微妙であります。鷗外の史伝類にも虚構の部分があるわけで、大筋において史実が担保されていれば、史劇として許容できると、わたくしは思っています。
 準大河ドラマというのでしょうか。NHKの『坂の上の雲』を観ていますが、かなりの粉飾がある。それもよいではないかと面白く観ていたのですが、先日の旅順攻撃の回では、決して許されない史実の改竄があるのに驚きました。28サンチ砲を「送るにおよばず」と第3軍が大本営に返電したのは、文言の捏造であることが立証されているにもかかわらず、これが採用されていました。いわゆる「乃木愚将説」の根底に関わるもので、原作の故意をうかがわせる問題の箇所をそのままにしているのは、それこそが「歴史其儘」に反する作劇者の芸術的良心の欠如といわざるを得ません。いろいろ残念なこともありますが、おしなべて大河ドラマは面白くあります。                             
                                      (古川 薫)

 

  つぶや記 92
  古典の日
 
ある国会議員の先生から聞いた情報では、目下「古典の日」制定の話が進んでいるようです。
 以前、フィンランドを旅した時とき、この国の民族叙事詩『カレワラ』が、どこの本屋でも売っているのに感心しました。それも各国語に訳した廉価普及本が、山と積まれているのでした。日本語訳はありませんでしたので、英語版を買って帰りました。フィンランドには≪カレワラの日≫があるのです。
 『カレワラ(Kalevala)』 は、東フィンランドに伝わる歌謡を採録、再構築したもので、1835年(日本天保6年)に刊行されたのですから、そう古いものではありません。
 天地創造に始まり、キリスト誕生に対する男子生誕で終わる物語は広く愛誦され、ついに国民的叙事詩としての地位を占めました。わが国でいうと、さしあたり『平家物語』にあたるところですが、鎌倉時代に成立した古典は、作者不明で国文学上、叙事詩の市民権は与えられていません。
しかしこれはあきらかに国民的叙事詩に位置づけてもよいものです
。下関市の赤間神宮には旧国宝(戦災で一部焼けたので現在は重文)『長門本平家物語』が所蔵されています。「古典の日」制定の要望は京都から出ているので、そこでいう古典とは『源氏物語』など一連の平安文学の作品群を対象としているのでしょうが、『徒然草』など鎌倉時代の名作もふくまれることは当然で、『平家物語』も「古典の日」を契機に、国民の関心を強めていくでしょう。来年のNHK大河ドラマ『平清盛』ですから雅な平家文化とともに、世界に誇る日本古典文学の花が一斉にひらきそうです。
                                      (古川 薫)

 つぶや記 91
 2歩前進は文明

 中国を旅していて、面白い言葉に出会いました。いわく「2歩前進は文明」という教えですから、これは日本人男性諸君にも伝えなければと思いました。ほかでもありません北京で使った男性トイレの話です。
 用を足していると、目の前の壁に「1歩前進向井前 2歩前進―文明」と書いたプレートが貼り付けてあるのでした。男性便器の床が濡れているのは、東西いずれの国でも同様で、わたくしの経験では、紳士の国イギリスでも、やはり公衆トイレの男性便器の床がタレコボシで、濡れているのを見た記憶があります。
 中国ではそれがひどいと言ってみたものの、日本でも負けてはいません。映画館のトイレは急いでいるせいかビショビショで、それが少ないのを物色して用を済ませるというていたらくです。一応は分かっているのです。もっと体を前に進めればよいのに、衣服が便器に触れるのを嫌い、1歩前進で済ませてしまう。便器の床を濡らしているのは、非文明のなげかわしい象徴として、「2歩前進―文明」の呼びかけとなったのでしょう。
 いきなり明治時代の古い話になりますが、児玉源太郎が陸軍大尉になり、大阪鎮台の副官として赴任してきたときのこと。将校集会所の便所が薄暗いせいか、床がよごれるので「前に進んでやれ」と張り紙がしてある。それを見た児玉は烈火のごとく怒り、「いやしくも兵隊の範たるべき将校の不名誉ではないか」とその張り紙の撤去を命じたという話が残っています。
 百年後の今も男性トイレでは相変わらず非文明の状況がつづいているわけで、自戒もふくめ以上中国旅行の報告といたします。(古川 薫)

 つぶや記 90
 『一命』に失望した

 カンヌ国際映画祭に出品、落選した日本映画『一命』を観ました。この作品の原作は、わたくしの親友滝口康彦(故人)の『異聞浪人記』です。
『切腹』と改題して小林正樹監督により映画化、昭和37年(1962)同じくカンヌ国際映画祭に出品して審査員特別賞を受賞しています。
 主演の仲代達矢さんとは、先般佐賀県多久市での滝口康彦文学碑の除幕式でお会いし、1時間ばかり話す機会がありました。
 この映画の中で主人公の津雲半四郎と彦根藩家老(三国連太郎)との緊迫した会話が圧巻で、そのことについて仲代さんが熱をこめて語っておられたのが記憶にのこっています。それで気付いたのは脚本(『切腹』の脚本は橋本忍)の役割です。脚本によって原作は新たな作品となり、監督がさらに新しい生命を吹き込む。そして俳優。この4者一体となって傑作が生まれるということです。
 率直に言わせてもらえば、『一命』の4者は『切腹』と比べものにならないと申し上げたい。次に腹立たしいのは、今度の国内上映でこの作品がヨーロッパの人々を「驚愕、震撼」させたと宣伝しています。むこうの人々も先刻知っているハラキリの、それも竹光(竹で本身をすりかえた模擬刀)で切腹する超残酷場面を作りだし、それを売り物にしている底の浅いしろものであることを、みずから告白するような宣伝文句でした。
 原作が内臓する「葉隠」の武士道精神を全体として表現した前作『切腹』に拍手したヨーロッパの人々に、志の低さを見抜かれてしまったのです。
 海老蔵さんの演技にも首をかしげました。やはり映画では、仲代達矢に遠く及ばないという感じでした。わたくしが悔しいのは滝口の秀作が、このような姿で惨敗したことに対してです。     (古川 薫)

 つぶや記 89
 痛みとの戦い

 先日、宇部市の全日空ホテルで「中部日本整形外科・災害外科学会学術集会(会長山口大学医学部田口敏彦教授)があり、名古屋以西の医学者、開業医千数百人が集まりました。わたくしは文化講演として『面白き事もなき世を面白くー高杉晋作のメッセージ』と題する話をさせていただきました。
 この学会のテーマは「運動器の痛みを識る」となっています。高杉晋作は幼少のころから詩人として立つ志をいだいていました。それは果たされませんでしたが、少年時代から死ぬまでの13年間に、約400篇のすぐれた漢詩を遺しています。
 最晩年の詩の一節に「恨むらくは、我、少年の日、兵を学んで詩を学ばず」と、戦闘者として生涯をとげることを嘆いています。『面白き事もなき世を面白く』という彼の辞世は、常に不幸感に満たされるこの世への恨み、そしてそんな世を精一杯面白く命を燃焼したと、後世に語りかけるダイイング・メッセージであったのです。「恨む」という心の痛みを訴えた晋作の話は、ちょっぴり学会の趣旨に沿ったつもりですが。――― 
  
医学でいう痛みとは、むろん肉体的な痛苦ですが、精神性の痛みもふくまれるわけで、人間はいつも何らかの痛みに襲われている生き物です。
 IT技術の発達で、痛みという実に主観的、抽象的な病理も計測できる日が近いそうです。「恋の悩み」もそのうち病院で治療できる日がくるでしょうか。それともやはり「お医者さまでも草津の湯でも」ですか。こんどの学会で大阪大学の池田光穂博士の『痛みの比較文化論』という特別講演があったことを迂闊ながらあとで知りました。紀要ができたら、素人の好奇心で一読したいと思っています。   (古川 薫)

 つぶや記 88
 ヴァイオリン協奏曲

 先日、下関の映画劇場シアター・ゼロで『オーケストラ!』という作品を見ました。パンフレットを紛失したので、詳細なデータを紹介できませんが、出演者はロシア人です。ロシア映画かというと、一味も二味も違うのですね。
 どうやらブレジネフに潰されたらしいボリショイ管弦楽団のOBが数十年後、パリで再編成、問題の「チャイコフスキイ・ヴァイオリン協奏曲」を演奏し大成功をおさめたという成功譚ですが、それだけでは面白くない。そのヴァイオリンを弾いた女性は、ブレジネフを批判して追放され、シベリアの流刑地で死んだユダヤ人女性ヴァイオリニストの娘さんだったことがわかる。ひそかにフランス人として育てられ、父母は交通事故で死んだと教えられていた本人が、その演奏の過程で真相を知るというストーリーです。
 久しぶりに感動した映画でしたが、これがアカデミー賞の対象にならなかったことが不思議でなりませんでした。以前、『おくり人』がアカデミー賞で脚光をあびる直前、3人の観客しかいないシアター・ゼロで観たことがあったので、こんどもそんな結果となるのではないかと期待しましたが、それっきりになってしまいました。
 その後、我が家の書庫を探したところ、危うく廃棄処分になりかけていた同曲名のLP盤がありました。しかもハイフェッツのビクター赤盤です。なけなしの小遣いをはたいて買った思い出の逸品、少し針音は気になりますが、映画の感動を再現してくれました。最近この曲にこだわっているのですが、10月末の毎日新聞で第80回日本音楽コンクール・ヴァイオリンの部で優勝した東京芸大3年の藤江扶紀さんが弾いたのがこの曲だと知って、また聴きました。むろんビクターLP赤盤で。  (古川 薫)

つぶや記 87
アップルと映画

 先日、米国巨大電子機器アップル社のスティーブ・ジョブズ氏死去のニュースが世界を駆けめぐりました。
 アナログ世代とは、たとえばジョブズ氏の生死と何の関わりもなく、パソコンなどとも無縁の生活をして、別に生きることの支障を感じていない人々のことです。
 ところでデジタル映像技術の驚異的な進歩を見ていると、映画という世界はこれからどうなっていくのだろうと、ふと首をかしげるのです。多数の映画館を集合させたいわゆるシネコンなど、アナログ世界の殻をつけた映像施設ですが、それはそれでよいのかもしれません。
 アップルのジョブズ氏は、毎朝、家を出るとき鏡にむかって、「きょうが最後の日になる。何をなすべきか」と自分に問いかけたといいます。
江戸時代初期に成立した『武道初心集』の冒頭には、「武士たらんものは、日々夜々、死を心に集めておけ。さればいつどのような事態にも対処して大いなる仕事をなしとげられる」という意味のことを説いています。
 最尖端技術の元祖もアナログ的思考を大事な部分として持っていたのです。アメリカのウォール街ではじまった若者のデモは、インターネットで広がりを見せています。彼らが格差是正を唱えているのであれば、これはやはりアナログ世界の基本的な人間の叫びであるという現実が見えてきます。そして巨万の富を得たジョブズ氏のことはどうなるのか、資本主義社会における当然の利益ではあるのですが、貧富の格差につながる富の独占には違いないので、デモの標的になりかねません。まさに混濁の世ですな。                        (古川 薫)

  つぶや記 86
 イギリス艦来航事件

 広島大学の三宅紹宣教授から幕末長州史にかんする論文数種をいただきました。衝撃を受けたのはその中の『文久元年下関におけるイギリス艦来航事件』です。文久元年(1861)4月、英国軍艦が下関に来航したことは、諸記録でいちおうは承知していたのですが、4月28日から5月20日まで長期にわたり、一帯を震撼させた大事件であったという認識はありませんでした。
 その年2月には対馬でロシア艦ポサドニック号事件が起こりました。これは8月まで居座り農民一人が銃撃されて死ぬなどの事態に、幕府を困惑させているときのイギリス艦下関来航だったのです。そうした当時の状況からすれば、対馬の二の舞を恐れた騒ぎの様相が容易に想像できます。
 下関を藩領としている長府藩は、厳戒態勢を敷いて警戒に当たりました。とは言ってもその武装は戦国時代とほとんど変わらないお粗末なもので、2年後にはじまる攘夷戦の結果がそれを物語っています。対馬にはポサドニック号1隻でしたが、下関には4隻の黒船でした。
 騒ぎの最中に幕府の外国奉行・小栗忠順が対馬にむかう途中、咸臨丸に乗って下関港に入りましたが、下関でも対馬でも外国艦に相手にされず、江戸に引き揚げていきました。今でいえば外務大臣ですが、当時の日本の国力とはそんなものでした。下関の場合は六連島などに上陸しましたが、騒がせた末におとなしく去り、一件落着となりました。しかし僻地の対馬と違って北前航路の中継港たる本土の一角に異国の軍艦が長期に居座った事件は、長州藩の攘夷行動はじめその後の政局にも重大な影響を及ぼしたと三宅教授は指摘しておられます。これまでわたくしたちが看過してきた文久元年のイギリス艦来に、あらためて関心を呼び集める歴史論文です。     (古川 薫) 

 つぶや記  85
 極秘文書の廃棄

 田中絹代が監督した映画『流転の王妃』は、その背景となった史実に触れていませんでしたが、下関で暮らす人々の多くは、中山忠光暗殺事件のことを連想したはずです。
 幕府の追及をおそれた長府藩が、いったん庇護した忠光(明治天皇の叔父)をもてあまして暗殺した事件です。長府藩は事件を隠蔽して病死とし、藩史『毛利家乗』にも虚偽の記載をしています。
 後日そのことを傍証する文書類が次々と発掘され、いまでは公然の事実として史伝類に明記されています。真実は不滅です。
 本藩の萩藩には「二の丸様事件」と呼ばれる極秘の出来事がありました。毛利輝元が家臣の妻を忍者をつかって拉致、側室(二の丸様)に据え、その夫を毒殺させたというむごい話です。二の丸様が産んだ子供が、初代萩藩主秀就です。
 つくり話のようですが、厳然たる事実であることを物語る極秘文書が藩の文庫に保存されていたのでした。七代藩主就隆がそれを知って焼却を命じましたが、史臣のだれかが密かに持ち出して保存しました。それが今は県の文書館に収納されています。ーーー詳しくは布引敏雄著『毛利輝元側室二ノ丸様の薄幸』ほか『萩藩閥閲』、および古川 薫著『二の丸様誘拐』(「別冊
 文芸藝春秋」平成7年212号)参照ーーー
 実は、けさの新聞で沖縄返還をめぐる密約文書開示訴訟の記事を読んだのです。国側がうその説明が露見するのを恐れ、保管していた文書を情報公開制度制定前に廃棄したらしいというのです。その密約文書は永遠に陽の目を見ることはないのでしょうか。いや、そうでもない。心ある人が、後世のために必ず隠し持っているに違いないことを、歴史が教えています。        (古川 薫)

 

  つぶや記 84
 高春秋がんばる

 老人とは何歳ぐらいからをさすのでしょうか。老人クラブの入会資格は、これまでの常識からいって60歳を過ぎた人ということになるのでしょうが、そう言うと猛反発を食らいそうなこのごろであります。
 大正生まれのわたくしなどは、テレビを見ていて、20歳前後の男性が数人のグループを作ってなよなよと体をくねらせるようなダンスをしているのを、何となく苦々しく思うようでは、これを老人というのかなあなどと考えたりするんですが、その若者のクローズ・アップされた表情を見ると、なるほど柔和ないい男なんですね。かつての日本人にはなかったマスクです。女の子が騒ぐのも当然だと、急にものわかりよくなってしまうのは、もう少しみんなに蹤(つ)いて行きたいとひそかに願っているからであります。
 それにしても「老人」とは厭なことばですね。ためしに「類語辞典」をひいてみても、50歳から老人としており、「老いぼれ」「昔人」「足弱」などろくなものがない中にひとつおもしろいのがありました。「高春秋」というのです。「後期高齢者」よりずっとすばらしい。
 最近、山口国体のニュースで、高春秋の活躍が目立つのはうれしいかぎりであります。59歳の大将がひきいる山口チームの剣道優勝、47歳の馬術優勝、おっと47歳は高春秋まで3年ありますが、このさいは仲間に入れておきましょう。天高く馬肥ゆる秋、がんばれ高春秋!(古川 薫)

 

  つぶや記 83
 鬱という現代病

 下関出身・佐々部清監督の最新作『ツレがうつになりまして。』をシーモールのシアター・ゼロで観ました。
 「うつ」とは鬱病のことです。世情にうといわたくしとしては、「へー、そんなものが映画になるのかいな」くらいの気持ちで、劇場にでかたのですが、ちょっと衝撃を受けてしまいました。友人にそのことを話すと、認識不足を笑いながら「このごろ若い娘さんたちのあいだでは、鬱は一種のファッションで、それにかからないのは鈍感の証拠と思われているらしいよ」などという。
 誇張しているのでしょうが、ややそれに近い状況にあるようです。なにかとストレスの多い昨今のことですから、日常的に心の病いに襲われる人々がふえていることはたしかです。アメリカあたりでシック・マインドという言葉が流行したのは、数十年前のことだったと記憶しています。精神病というほどではなく軽い心の病いという理解でシック・マインドと鬱病を同義語と心得ていたのですが、このごろいわれる「うつ」は、かなり深刻な病理性を帯びているらしい。
 例によって広辞苑を引いてみました。その第1版には「深刻な悲しみの気分におちいる精神の病気。初老年期などに多く見られる」とごく簡単な説明がしてあります。初老年期に多く見られるとは恐れ入りました。さて第6版になりますと次のように懇切丁寧となります。「気分障害の一型。抑鬱気分・悲哀・絶望感・不安・焦燥・苦悶感などがあり、体調がすぐれず、精神活動が抑制され、しばしば自殺企図・心気妄想を抱くなどの症状を呈する精神の病気。原因不明。長いので以下省略)
 自殺企図など、映画ではここにあるそのままの症状に襲われる若いサラリーマンの姿が描き出されます。静寂な空気の中で進行するサスペンス・ドラマもどきの映画を、佐々部さんは作ってくれました。鬱病は風邪をひくように、安易にかかる精神病、原因不明、正体不明のウィールスのように忍びよってくるそうです。ご注意を     (古川 薫)

 つぶや記 82
 「山口県下関出身」

 大相撲が復活9月25日に名古屋場所の千秋楽を迎えました。郷土人として胸をなでおろしたのは、なによりも豊真将・豊響の両力士が、角界不祥事の圏外にいて相変わらずの活躍をしてくれたということです。
 豊響のほうはスランプに悩んでいるようですが、力のある人ですからそのうち必ず盛り返すものと確信します。豊真将の躍進はめざましく、今場所では大関陣をなぎ倒すなど敢闘、新三役昇進は早くからささやかれていました。
 両力士の四股名「豊」は「豊浦」にちなんでいるのですが明治初期、長府藩を豊浦藩と呼んだこともあります。また、仲哀天皇・神宮皇后の宮居を「豊浦皇居」とも呼んでいるように、がんらい「豊浦」は下関市域の汎称でもあるわけで、その四股名をもった力士が、全国に勇名を轟かすのは、ま
ことに痛快であります。
 NHKテレビ相撲放送の視聴者は、おそらく100万人を下らないでしょう。「山口県下関出身」という呼び出しアナウンスが、15日間響きわたるのです。幕内2人の郷土力士ですから、期間中30回、3000万人の鼓膜を震わせているのです。認識が浅く、まだ「福岡県下関市」と考えている人が関東以北には少なくないと聞いていますので、山口県の下関市であることが浸透するにちがいないと、他愛のないことを考えたりもいたします。
 しかしまずは「市名」ですよ。下関市のPRを果たすこれほどの功績は他に例がありません。それにしては郷土力士への声援がいまいちという感じです。わたくしはここ数年、九州場所の千秋楽に出かけ、多少気恥ずかしい思いをしながらも「豊真将!」「豊響!」と声をからしているのですがーーー。ところで、お2人が土俵でしめす礼儀正しさを、いつも誇らしげに眺めています。勝ち名乗りのとき、賞金がないといかにも不服そうに、後足で砂を蹴るように立ち去る行儀の悪い力士は、八百長、野球賭博事件いらいかなり淘汰されましたが、「山口県下関市出身」の豊真将・
豊響は模範的力士です。敢闘を祈る。        (古川 薫)



  つぶや記 81
 絹代の赤いハイヒール

 先日、俳誌「其桃」(下関市・中村石秋主宰)の田中絹代ぶんか館吟行がありました。ぶんか館3階休憩室に短冊が展示してありますが、送ってもらった句稿の中から、わたくしの好きな作品を紹介させていただきます。

 渋団扇赤いグラスを二つ置き           中村石秋
 梅雨明けを待たるる絹代の赤い靴      福島 泉
 大女優の光陰たたむ扇子かな          川上恵子
 赤い靴涼しき顔の絹代かな              井上灯子
 絹代愛用の団扇昭和をあふぎけり      池田尚文 
 青嵐や絹代艶然と銀熊賞                金谷初枝
 江戸切子朱盃に透かす夏座敷          坂本悦子
 館より出でて夏帽目深にす               角田節子
 薫風や琵琶ひく絹代おさげ髪            前田冨美
 七月や絹代の赤いハイヒール            田中美智子
 絹代館絹代ファンの蛇もきて              山下清子

 その後、共同通信社大阪支社文化部記者の上野敦さんが、田中絹代ぶんか館を取材にこられました。映画俳優個人にかかわる記念館は、国内に数ヶ所しかないそうです。それぞれの特色を比べることになるのでしょうが、記事はこの近くでは山口新聞に配信されるはずです。
 「この館でいちばん見せたいものはなんですか」と上野記者がわたくしに尋ねられました。見せたい遺品は山ほどあります。わたくしはとっさに絹代のハイヒールを挙げました。「其桃」吟行の3人が絹代のハイヒールを詠んでおられます。
 さて大女優田中絹代の偉大な業績を支えた、てのひらに載るほどの21センチの赤い靴が、ぶんか館の展示ケースの一隅から無言に語る人間の命のかたちを、新聞はどのように紹介してくださるのか。楽しみです。(古川 薫)

 


   

 

  つぶや記 80
 「震災後」

 東日本大震災に関する写真雑誌などの特集保存版があれこれ出ているので、2冊ばかり買わせてもらいました。孫たち、またはその後に生まれた者たちが、それらのページを凝視している場面を想像しながら蔵書に加えました。
 わたくしは関東大震災の翌々年に生まれましたので、家にはまだ大震災の大型写真画報があって、震災から10年後の少年のころ、それをながめた記憶があります。大人たちの会話に「震災後」といった言葉がしばしば混じっていたことも覚えています。幕末、ペリー来航以後「葵丑(きちゅう)以来」が合言葉になったように、東日本大震災はこれから10年後、いやもっと長い歳月にわたり、時の命題として生き続けるでしょう。
 関東大震災は、田中絹代を映画の世界に引き出す契機となりましたが、日本の文化状況にひとつのエポックをもたらしたことは、すでに指摘された通りです。下関には東京からやってきた吉田常夏という文化人が、「燭台」という雑誌を発行、若いころの火野葦平が寄稿し、金子みすゞも顔をのぞけて創作意欲をそそられたひとときです。
 大きな異変のあとには、大なり小なり社会変革が見られますが、その最大の事件はやはり戦争でしょう。第一次世界大戦の次には、第二次世界大戦にも現象しました。趣はやや違って「アプレゲール」とはもっぱら若者の放恣で頽廃的な傾向をさしましたが、それどころでない戦後の一大社会変革とむきあうことになりました。
 ところで「レジーム・シフト」という恐ろしい言葉があるのを最近知りました。大気・海洋・海洋生態系からなる地球の動態の基本構造が数十年間隔で転換するという学説です。昨今の異常気象を見ていると今がその転換期ではないのか。それが「震災後」とどう重なるのか。その様相が現れるのは、わたくしどもアナログ世代が地を払ってからのことになるのでしょうが、はてどんな世の中になるのか。詮ないことですが興味はあります。   (古川 薫)

 

 つぶや記 79
 
孫文蓮

 下関市の長府庭園には7月中旬に花をひらく「孫文蓮」があります。大正・昭和にかけて下関市長府に田中隆というお金持ちが住んでいました。豪邸はその一部が長府黒門町に遺っています。
 孫文が辛亥革命の資金を日本で募ったとき、日本の富豪数人が巨額の献金をしています。田中隆はそのひとりです。孫文は下関にきて田中に会い、感謝のしるしに中国普蘭店の泥炭地から出土した2千年前の蓮の実を4つ、祝儀袋にいれて贈りました。田中の死後、大賀一郎博士の手によって発芽、みごとな花を咲かせました。これを皇居の道灌堀や奈良の薬師寺に移植、「孫文蓮」と命名され、のちに中国南京の中山公園に寄贈されました。長府庭園のそれは南京からの株分けです。
 「孫文蓮」は、北京の中山公園にもあります。これはわたくしが1972年(昭和47)に訪中したとき、田中隆の子息から依頼されて寄贈したもので、その後開花したしたとの報告があり、当時の人民日報でも紹介されました。田中隆のことは拙著『海と西洋館』(筑摩書店)に書いております。
 ところで9月4日付新聞によると、香港で「孫文と梅屋庄吉展」が催され、長崎市長らも出席しています。長崎には梅屋庄吉の銅像もできて「日中友好」の励みとしているようです。
 わたくしが言いたいのは、梅屋におとらず孫文に巨額の献金をした人物は、山口県下に2人もいます。田中隆のほか久原房之助(萩出身・日立製作所の社祖)がいます。やはり当時のお金で総額300万円にのぼる献金でした。久原は孫文の受取証を保存していたので、東京裁判にA級戦犯として出廷したとき、それを提出して放免されています。山口県下には田中隆も久原房之助も、まだ銅像を建ててもらっていませんし、これら大先輩を「日中友好」に役立てようという発想も生まれていません。このご両人はむろん地元にたいしても巨額の寄付をしています。長州人といわず現代人はなべて忘恩の徒ですかねえ。
                                (古川 薫)

  つぶや記 78
 水に映る赤い火の粉

 Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。ーーーーー

 志賀直哉の短編『焚火 (新仮名づかいに変更)の一節です。夕闇せまる山中湖畔から空に投げ上げた燃え残りの薪が、彗星のような火の粉の尾をひきながら、放物線を描いてゆるやかに落ちてゆく。湖水に映った同じ光の円弧の先端が湖面で交わると同時にジュッと消えてゆく幻想的な情景は、前後の文脈を省略していても、充分に想像をかきたてられます。推敲をかさね、削りに削った志賀直哉の文章見本というべき例文です。
 死期が近づいたころの太宰治は、志賀文学を「植木職人」の芸にすぎないなどと毒づきました。修飾語のない平明な文節、センテンスの長短、その配列によって、自然に色づけされた文章に仕上げて行く。たとえばモノクロ写真を天然色にして見せる文章技法は魔術的でさえあります。初心のころ、わたくしは志賀直哉に心酔して、『焚火』を繰り返し書写したものでした。
 こんど田中絹代ぶんか館でひらいた文章教室で、わたくしは「文章はこうして書きますというような話は出来ません」と断って、あれこれと雑話めいたことを喋りましたが、少しは看板通り「文章作法」的な内容も盛り込んでおこうと思い、冒頭に掲げた志賀直哉の『焚火』の一節を書き写してもらうことにしました。私の長話より、よほど役に立ったに違いありません。   (古川 薫)

 

 つぶや記 77
 赤壁の賦、壇ノ浦を聴く

 古くは平安時代の貴族が漢詩文から佳句を選び、曲をつけて朗誦する「朗詠」という遊びがあり、漢詩や和歌なども交えた『和漢朗詠集』(藤原公任撰)といった詩歌集なども遣っています。
 近代になって、ヨーロッパあたりでしきりに朗読会がおこなわれ、現代にいたっても決して衰えてはいません。東京では近代文学館主催の朗読会が催されているようです。山口県内では山口市の朗読会が熱心につづけられていますし、下関には「詩を朗読する会」も早くから活動しています。
 声に出して読むことで、快感を覚えるのは詩文だけでなく、散文でも同様ですが、とくに和歌・短歌など活字で黙読するだけでなく、名作とされる作品は朗々と音読するにも耐え得るものだということが、耳で聴いていて分かります。
 ふつう朗読会は作家が未発表の自作を、少数の人々の前で朗読する会をさしますが、同時に「聴衆」となって耳をかたむける人々もふくめた集会でもあるのです。
 8月25日、下関市民会館でひらかれる琵琶演奏者上原まりさんによる『三国志-赤壁の戦い・秋風五丈原』および『平家物語-祗園精舎・壇ノ浦』演奏の夕べは、待望久しき夢の実現です。
 『三国志』も『平家物語』も文字で読む場合は和漢混合の散文ですが、叙事詩として読み、かつ耳で聴くべきものです。
 宝塚のステージでマリー・アントワネットを演じた上原さんの美声を聴けば、正史三国志65巻を読んだと同じ質量の感動に心を揺さぶられるといえば大げさですが、とにかく三国志を琵琶曲で聴く機会は滅多にありません。ちなみに上原さんの『三国志』は本邦初演です。
                                   (古川 薫)

 

 

 

 

  つぶや記 76
  文は人なり

 田中絹代は小学校も卒業していませんが、成人してからの文章は、エッセイや手紙などなかなかのものです。この夏、子ども作文教室というのを、昨年にひきつづき田中絹代ぶんか館でやりました。小学5・6年生を対象としたものです。
 電子時代の昨今ですが、文章をつづる記述活動と無縁の生活はありえないわけで、小学生時代から文章力をつけておくことが大事だと、親から命じられてきた子もいるようでした。私語したりふざけたりの男の子がそうなのでしょう。
 1時間ばかり話してから、文章を書いてもらいました。一応の題は与えてありますが、いきなりでは何をどう書いてよいか分からないではないかとの批判もあるでしょうが、まず各人がどのくらいの文章力を持っているかを把握するためです。一部の例外をのぞいて、どの子どももしっかりとした字で原稿用紙の升目を埋め、600字前後の文章を、起承転結を整えて書いているのです。さらに意外だったのは、ふざけたりして行儀のわるい例の男の子が、短い時間に400字ばかりの文章を文脈に乱れもなく書いているのです。そういうタイプの秀才型がいるんですね。しかし文章は卒なく書いているが、残念ながら情感がない。「花火を見に行きました」というのに、夜空を彩る花火の美しさ、おどろきがつづられてない。つまりマニュアル型の文章です。これから表現指導が始まるのですが、技法にとらわれるとそれ自体がマニュアルになって、文章に魂が入らない。三島由紀夫なども『文章作法』といったものを書いていますが、文章をこう書けといったことにはあまり触れていないのですね。要するに極意は文章以前の精神のあり方なのでしょう。「文は人なり」です。文章は習うのではなく、考えて創るものですね。この講座では、もっぱらお話に力をいれました。   (古川 薫)
 

  つぶや記 75 
  セミしぐれ

 わたくしの住んでいる下関市長府羽衣町の森では、毎年7月14日ごろ、初ゼミの声を聞きます。ことしは迀闊にも聞きもらしました。書斎で耳を澄ますと遠いセミしぐれが、湧くように耳の底で響いていますが、なぜか現実感がないのです。
 耳鳴りかもしれない。不安になり、外に出て耳を澄ませますと、セミはたしかに遠くで鳴いているようですが、部屋にもどると、また違う遠いセミしぐれが耳の底でかすかな響きをつづけているのでした。これはやはり耳鳴なのでしょうか。
 家の前に車がとまる音は、聞けるのだから、聴覚はまず正常、だとすれば自然の側に異常が起こっているに違いない。とにかく身近なところでセミしぐれが聞けない夏は不気味です。
 今から66年前の8月、わたくしは見習士官として兵庫の航空隊におりました。7日の朝、親しくしていた将校のひとりが、そっと新聞を見せてくれました。「広島に新型爆弾」という2段見出しが見えました。「原子爆弾を落とされたということだな」と彼は微妙な笑いを見せて言いました。
 その数年前、わたくしが民間人だったころ、新聞でやはり2段見出しの「マッチ箱で軍艦を轟沈」という記事を読みました。原子爆弾の開発を各国で競っているというニュースでした。
 「日本も早く原子爆弾をつくって、アメリカをやっつけたらよい」と思ったのはわたくしだけだったでしょうか。先につくったアメリカが、それを広島に落とした、もう神風は期待できないと思いました。敗戦の玉音を聞いた8月15日の正午、直射日光に皮膚を灼かれながらうなだれた頭上から 、耳をつんざくようなセミしぐれが降りかかってきました。残酷な8月の記憶であります。   (古川 薫)

  つぶや記 74
 テレビ商戦

 倉本聰さんの『歸國』を下関市民会館で観ました。。芝居を観て感動の涙をながすなどは、近ごろめずらしいことでした。この劇の原作は、戦時中から兵隊作家といわれた棟田博氏が戦後に書いたもので、サイパンで戦死した将兵たちの亡霊を乗せた列車が、深夜の東京駅にすべり込むという話。
 敗戦から10年後の昭和30年、NHKのラジオ・ドラマとして放送されました。学生のころそれを聴いた倉本さんが、「昭和85年」の2010年、原作を脚色したのが、舞台劇『歸國』です。原作は声高に戦争を論ずるのではなく、淡々と一夜の風景を描いたSF小説ですが、倉本さんの脚本は、彼ら「英霊」の目に映った現代の日本がシニカルに描き出されます。
 倉本さんのテレビ・ドラマ『りんりんと』については、以前ここに書きました。田中絹代が48歳のとき出演した『楢山節考』を、最晩年に再演したかたちとなった現代版「姥捨て」です。アナログ時代の傑作として後世に遺るでしょう。さまざまな名作を生んだアナログ・テレビは、過去の世界に遠ざかっていきました。「アナログ放送あと××日」などという告示が画面の隅を大きく埋める日が長くつづいた末、7月24日正午消滅、やがて画面は砂嵐になります。ぎりぎりまでアナログにつきあったわたくしもついに切り換えることにしたのですが、デジタル移行のチューナーが無いと電器屋さんがいいます。生産を中止したそうです。古いアナログ・テレビを捨てて、新しく買い替えさせるためのセコイ製作会社の商法らしい。
 まだまだ人情をただよわせていたアナログ時代は遠くなりにけり。サイパンから帰国した将兵の亡霊ならずとも、悲しい気分となるデジタル経済大国に日本はなりにけり。喝!      (古川 薫)

つぶや記73
光陰矢のごとし

 
昨年末、日めくりカレンダーをもらったので、ことしは元日いらい1日1枚、A4の大きさのコヨミをめくることを楽しむつもりでした。特大の数字のまわりに旧暦の日付、大安・仏滅など最近はカレンダーから消えた暦注六輝、「昭和以来86年」、「喜びの一日は悲しみの二日に優る」といった日々の処世訓、はたまた前月と翌月の七曜暦まで小さく刷り込んであります。結構役に立ちそうです。
 ところが旅行などして帰宅すると、生きている時間の経過を告げるように、過ぎた日付の数字がいやに大きく目に飛び込んできて、疲れを倍増させたりもします。旅行ではなく、忙しさにかまけてカレンダーをめくるのを忘れて数日を過ごすことが一再ならずあります。目を通すまでもなく、1枚ずつめくり捨てるときの気持ちは複雑で、どうかすると、無駄にした時間が紙きれとなって、はらはらと散って行く虚しさを感じることが、加齢とともに多くなります。落ち葉のように軽やかに舞いながら、チリ箱を埋める日めくりカレンダーをながめるたびに、「光陰矢のごとし」という格言を思い浮かべるのです。
 そんな日めくりカレンダーなら壁からはずしてしまえばよいではないかと思わないでもありませんが、それでは一挙に大量の時間を放棄するような気がしないでもない。
 「光陰矢のごとしとは、人類が発明した最高に残酷な言葉だ」といったのは、多分小林秀雄だったと思いますが、数日ごとにこの残酷な言葉を、日めくりカレンダーをまとめて破り捨てつつ味わっている昨今であります。    (古川 薫)
  

 

 つぶや記72
 ワンシーン・ワンショット

 映画監督・清水宏は、田中絹代の夫となった人物です。忘れられない人ですが、どうも印象がよくない。
 「試験結婚」ということで昭和2年のいつごろからか社内公認?の同棲生活に入り、2年足らずで破局を迎えました。破局というからには、その別れぎわがよろしくなく、非が宏にあることは、傍証的にも明らかですが、そのために彼が絹代にとって恩人としての存在である事実は薄れてしまっています。絹代の才をみとめ、積極的に出演の機会を与え、東京の蒲田撮影所に行くことを強く勧めたのも宏でした。彼がいなかったら、順調な絹代のその後はなかったかもしれません。絹代ファンもこれだけは、心にとめておくべきです。
 こんどテレビで『風の中の子供』を観て、おどろいたことがあります。昭和12年の時点で、清水宏が演出手法「ワンシーン・ワンカット」を駆使しているのです。シナリオでひとつの場面(シーン)として描かれている情景を、平均5秒から10秒のショット(カット)に分けて撮影するのが常識でした。ところがドラマを中断せず、カメラを据えっ放しにして撮るのが「ワンシーン・ワンショット」です。これは溝口健二監督が創造したもので、世界中の映画製作に影響をあたえた画期的な演出法だといわれています。
 溝口監督の『残菊物語』で新派の舞台俳優45歳の花柳章太郎が、年若い菊之助を演るとき、クローズアップを避け、徹底的にワンシーン・ワンショットで撮った、その過程で会得したことになっています。しかし『残菊物語』は昭和14年の公開だったのに対し、清水宏の『風の中の子供』は、昭和12年の作品です。つまりワンシーン・ワンショットは溝口より清水が先に手をつけたことになり、溝口神話が崩れてしまいますが、研究の余地ありということですか。             (古川 薫)
 

つぶや記 71
原作者を無視する無知
 

 7月3日のNHK・BSテレビで清水宏監督の『風の中の子供』(松竹)を観ました。
 原作は坪田譲治の同名作品です。譲治は日本の児童文学を代表する作家のひとりで、芸術院会員、昭和57年92歳で亡くなりました。
 小川未明と共に日本の創作童話をきりひらいた作家として知られていますが、未明の北欧風ロマンティシズムに対し、譲治は日本的リアリティに裏づけられた子供の世界を描いたとされています。『風の中の子供』は、子供の幻想と大人の現実的な不安をからませた作品で、映画『風の中の子供』は、1937年度(昭和12)キネマ旬報ベストテンの第2位に挙げられています。
 わたくしが不満だったのは、この映画を紹介するある映画監督と女性アナウンサーが、原作についてひとことも喋らなかったことです。わたくしがしばしば言ってきたのは、傑作映画のほとんどは、傑作の文学作品が原作となっているとう事実です。はじめて国際映画祭で脚光をあび、日本映画が第1級のレベルにあることを世界に知らしめた黒澤明の『羅生門』の原作は、芥川龍之介の『藪の中』でした。
 映画『風の中の子供』を語るのに、原作を無視するのは、日本児童文学の泰斗・坪田譲治の文業を知らない無知からくるものだといわざるを得ません。
 ところでこの映画の監督清水宏が、一貫して日本の自然描写と子供の生活を描き、戦後はみずから戦災の浮浪児の世話をし、『蜂の巣の子供たち』が、1948年度(昭和23)キネマ旬報ベストテン第4位に評価されたという紹介もありませんでした。実は田中絹代と結婚した男性であることまでの紹介は不要かもしれませんが、わたくしたちにとっては忘れられない事実なので、次回はそれについてお話しします。
                        (古川 薫)

  つぶや記 70
  恩地トミ母子の写真

  先日来、講演で「中山忠光暗殺事件」について話しました。内容は事件そのものの経緯と事件後の周囲の動きに重点が分けられます。事件後といえば、忠光が長府藩の手で暗殺された当時、側女の恩地トミがみごもっていたこと、彼女の孫が満州国皇帝の弟愛新覚羅溥傑と結婚したことなどに話が発展します。
 田中絹代監督作品『流転の王妃』では、恩地トミのことが、まったく省略されているので、それらを補足する意味もあって、すこしばかり力を入れました。愛新覚羅、中山両家の系図から恩地トミが消されているのは、トミが下関の商人の子であることを、貴族が嫌う理不尽な理由らしいので、ことさら協調しました。
 念のため『下関市史』(旧版)の藩政期編を見ると恩地トミが赤ん坊の仲子(やがて嵯峨侯爵家に嫁す)を抱いた写真が載っているのです。やや不鮮明な写真ですが、眉目秀麗といったトミ女の風貌もしのばれるまことに貴重な写真です。よくぞこれを探し出して掲載してくれたと市史編集者に感謝したしだいですが、撮影者や出所があきらかにされていないのが残念でありました。しかし疑いの余地はないようです。
 明治のはじめ下関の宮田町に富田重範という写真師がいたのを、稲荷町の大坂屋の当主木村義男さんから聞いたことがあります。幕末、長府藩報国隊の隊士として戊辰戦争に従軍し、北越の戦いで足を負傷して凱旋、下関で最初の写真店を開業しました。
 重範の悲願は長府藩の殿様「毛利元周」の写真を撮ることで、それは叶えられたそうですから、長府にいた恩地トミ親子の写真も彼が写したものかもしれません。市史編集者は恩地家から入手したと思われます。ほんとうに貴重な写真を遺してくれた。重範さんにも感謝と言ったら、すこし騒ぎすぎですかな。    (古川 薫)

 つぶや記 69
 本家争い

 金子みすゞは1903年(明治36年)4月11日、仙崎で生まれました。そして1930年(昭和5年)3月10日の朝、下関市南部町の上山文英堂書店の2階で息を引き取りました。服毒による自死でした。26歳、あたら気鋭の閨秀詩人を死に追いやった人々を恨むや切なるものがあります。前後の経緯については研究者にゆずりますが、とにかく作品活動の大方は下関で生活したころでした。
 ところで詩人や作家が有名になると、「あの人は自分たちの住んでいるここで生まれた」と誇らしげに言いたて、ときには「本家争い」も現出します。あとでちょっと触れますが、林芙美子の誕生地をめぐって、あさはかな「本家争い」が時に話題になったりします。
 さて、金子みすゞのことです。この詩人が多くの人に知られるようになってからすでに久しく、今では国際的に広く知られています。その金子みすゞを広辞苑が搭載しないのはなぜか。みすゞのことを詩人と呼ばず「童謡」詩人とわざわざカンムリをつけるところに問題がありそうです。岩波書店の担当者に尋ねたいところですが、第7版ぐらいにはぼつぼつ登場することになるだろうと思います。現在、広辞苑に載っている下関出身の有名人は、田中絹代・藤原義江・林芙美子の3人です。門司の井上さん(故人)が、伝聞にもとづいて「芙美子は門司で生まれた」と主張、東京の出版社にまで出かけて、全集の年譜の書き換えを申し入れたりしたのは、ずいぶん前のことですが、伝聞でない確固とした根拠がないかぎり、広辞苑はいぜんとして「下関生まれ。」と断定しています。『放浪記』や『一人の生涯』に芙美子自身、「私が生まれたのは山口県の下関です」と繰り返し書いているのを信ずるしかないじゃありませんか。  (古川 薫)

 つぶや記68
 
金子みすゞ

 金子みすゞの正確な生年月日を知りたいと思って、広辞苑第6版を引いてみましたが、金子光晴は出ているが、みすゞは見当たりません。
 ついでですが、大詩人金子光晴が下関にきたのは大正時代初頭だったと思われます。大正15年12月に新潮社から出た詩集『水の流浪』に、「関門海峡」という詩が収録されています。
 「関門は職を失ひ、妻子をおいて、こころは無、ふところも寒い雨の朝、連絡船でわたるには、なんとそっくりふさわしいことか」ではじまるこの詩は、ほかの文人が下関を詠んだ作品にくらべて、あまり明るいものではありませんが、旅人が抱いたであろう下関の旅情を言いあてているようで、わたくしたちの心をなごませてくれます。
 さきごろからよく言われるようになった「癒し」ということばを、甘ったれた根性に見えて、わたくしは必ずしも好きになれませんが、こんどの東日本大震災にかぎって、「癒し」の効用といったものの切実な思いをこめた感慨を味わいました。被災者たちに対する物質的な支援はもちろんですが、心に贈る「癒し」こそが最大の義捐であるでしょう。そんなとき金子みすゞの童謡詩は、まるでこのときのために、みすゞが詠い遺してくれたのだとの感があります。
 そんな金子みすゞが、広辞苑に載っていないのは不思議な気がします。念のため『山口県百科事典』(大和書房)をあたってみましたが、1982年(昭和57)発行のこの書物にはまだ記載がありません。東日本大震災が発生した当初から、テレビ・コマーシャルでみすゞの詩が紹介されてから、あらためての「みすゞブーム」となりましたので、ひょっとすれば広辞苑第7版には登場することになるかもしれません。この項つづきます。
                                                                       (古川 薫)

 

  つぶや記 67
 定点観測

 「定点観測」という言葉は、辞書で引くと「海洋上の定点で行われた連続的な観測」とあります。もともとは気象観測の用語らしいのですが、動かない場所からの冷静な状況観測という意味で使われてもいます。錯綜した社会現象に取り巻かれたこんにちにおいては大事な視点と言えましょう。
 すこし話は飛躍しますが、戦地におもむく若者の母親が歎き悲しむ深刻な場面を、テレビ・ドラマが描いています。例外もあるでしょうが、当時の日本の母親は悲しみを必死に隠していました。
 松竹映画『陸軍』は敗色濃い昭和19年、田中絹代出演の作品です。出征して行く息子の隊列を追う母親の行動、表情をこれでもかとばかり映し出した長いシーンが評判になりました。軍当局は上映禁止を考えたようですが、逆効果と判断して、苦々しげに許したのは、それが国民のあいだでひそかに認識されている真実であることがわかっていたからです。戦時色渦巻く世相の陰に隠れた母親にスポットをあてる定点観測を敢行した映画人木下恵介の冒険的作品でした。
 さらに話は飛躍しますが、6月2日に政府は社会保障の改革案に、消費税を5%から10%に引き上げる方針を明記しました。それを報道する記事は、菅内閣不信任決議案の派手な記事のうしろに小さく隠されてしまいました。ある社説は、「普通なら、翌日の国会で大議論となりそうなものだが、参議院予算委員会の質疑は菅直人首相がいつ辞めるのか、のほぼ一点に集中した」と書いています。
 一連の動きは国民を忘れた政争でしかないことを指摘しているのですが、1面トップの重要ニュースであるべき消費税率大幅引き上げは4面にまわって、政界大騒動に一点集中です。いつの世にも求められるのは「定点観測」であります。                  
                                   (古川 薫)

 

 つぶや記 66
 関門海峡発電所

 田中絹代をはじめ藤原義江も林芙美子も、下関で生まれた人たちは、原風景である関門海峡への郷愁を、それぞれに語っています。
 下関と関門海峡は太古から深いつながりの歴史を生きてきました。内海航路、国際航路としての機能は、現代にも引き継がれています。
 この関門海峡に新しい役目を持たせようという発想は、潮流の利用です。関門海峡の巨大な潮流の潜在エネルギーは、長い歳月にわたって放置されてきました。
 下関にきた坂本龍馬は、関門海峡を通航する仰山な船舶をみて、馬関商社の設立を思い立ちました。福島原発事故を契機に自然エネルギーによる発電に関心が集まった今、彼がいたら関門海峡水力発電所を興そうとするのではないでしょうか。
 関門海峡の潮流を利用しようとする発想そのものは、ずいぶん以前から取りざたされていましたが、当時では電力需要が切羽つまった状況になかったせいもあって夢物語りに終わっていました。
 ところが5月26日の山口新聞によると、北九州市と九州工業大学が、関門海峡での「潮流発電機」の実証実験に2011年度から取り組むとのことです。思わず快哉を叫んだのですが、「下関海峡」のほとりにいるわれわれとしては、指をくわえてそれを見ているわけにはいかないではないかとの思いもあります。
 関門海峡の流れで出来た電気が、九州をうるおすのであれば、西中国の電気をまかなう下関側にもそれができてもよいではないか。潮流のはげしい巌流島あたりに、適地がありそうです。「関門海峡巌流島発電所」というのはいかがですか。発電という新しい機能を加えた21世紀の関門海峡は、もはや夢ではなくなりました。   
                                     (古川 薫)  

 

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