つぶや記 27
姥捨山長寿大国
田中絹代主演、木下恵介監督の『楢山節考』は、昭和33年(1958)松竹大船作品です。深沢七郎の小説を映画化したもので、絹代は49歳、例の投げキッス事件のとき、意地悪な新聞から「老醜」と揶揄された屈辱が、まだかすかに尾をひいておりました。
すでに『真昼の円舞曲』(絹代40歳)のとき、健康な前歯4本を抜いています。その差し歯をはずしての体当たりの演技であり、老いを逆手にとった老婆役への捨て身の挑戦でした。
おりんは、山に捨てられる覚悟ができていながら、息子の辰平は老女を捨てに行こうとしない。それが年をとって歯も抜けないほど元気でいるためだと知り、おりんは石臼をかじって、前歯を折ってしまいます。老婆が石臼に噛みつく鬼気迫る場面が話題となりました。
その年、絹代のふるさと下関は、関門国道トンネル開通でにぎわうなど、国じゅうが好景気にうかれているころです。そこへ貧しく悲しい姥捨伝説を送り出す皮肉は、もちろん映画人の意図するところだったのでしょう。親を老人病院へ入れて、見舞いにも行かない現世の姥捨が、社会現象として、ひそかに進行していたのです。
『楢山節考』は、「キネマ旬報」ベスト・テンの1位となり、女優賞を受けて、『サンダカン八番娼館・望郷』とならび、絹代の女優生活の最終をかざる2大作品となりました。
姥捨ての残酷な風習の事実は、遠いむかし、あったにちがいないが、それは伝説としてのみ形をとどめていると、思われてきました。このごろ100歳を超える老人の行方不明事件が、次々と発覚して大問題となっています。
長寿大国を誇る日本の恥部がニュースとなって、地球を駆けめぐっていると聞き、先人顕彰館2階に展示してある『楢山節考』の中の美しく老いた田中絹代の白髪の面差しが、愁いで曇っているように見えるのも、たいへん悲しいことであります。 (古川 薫)
つぶや記 26
敗戦のセミしぐれ
ことしは7月の中旬になってもセミの声がしないので、やはり異常気象かと不気味な感じがしていました。下関市長府のわたくしが住んでいるあたりでは、毎月7月 14日前後に初ゼミの声を聞いていました。
7月14日はフランス革命記念日で、日本とは関係のない日です。ルネ=クレール監督の映画の題は『7月14日』だったのを、日本人が勝手に『巴里祭』と訳したことにはじまり、この日フランスかぶれの日本人が、ワインで祝杯をあげたものでした。わたくしなども勝手に「初ゼミはパリ祭のころ鳴く」と記憶のしおりにしてきたわけです。
さて戦後65周年といわれることしの8月15日ともなれば、さすがにうるさく鳴きたてるセミしぐれを浴びる毎日です。
ひところは西日本の盆を「月おくれのお盆」と,メディアは言っていました。陰暦 7月13日~15日の仏事なら、新暦8月のお盆を月おくれなどというのは誤りだと気づいたからでしょう。猛暑に襲われている列島の道路が、ふるさと往復の車で埋もれるいっぽうでは、広島に次ぐ長崎への原爆投下など風化しない悲惨な悪夢をなぞる新聞、テレビ番組にやりきれなさを覚えながらも、耳目をそむけることはできない敗戦記念の数々です。
昭和20年(1945)8月15日正午、わたくしは兵庫県の航空隊で「玉音放送」を聴きました。激戦地沖縄転属の直前でした。敗戦の絶望と同時に、死から開放された喜びをないまぜにした混沌のなかで聴いた天皇の沈鬱な声と,セミしぐれが、65年を経た今日も、わたくしの耳朶にひびいています。
遠い国の革命記念日から連想する初ゼミの声と、自分の生死を分けた昭和20年の晩夏の一瞬に聴いたあのセミしぐれと・・・・・・。戦争の世紀といわれる20世紀を生き延びて、なお21世紀の空気を吸いつづけている生き残り航空兵が迎えた 65回目の敗戦記念日でした。 (古川 薫)
つぶや記 25
西赤関に大沢あり
中原中也記念館の「河上徹太郎と中原中也 ー その詩と真実」展を観て、河上先生への思いあふれて際限なく、いくらかは自慢めく話になりそうですが、非難は覚悟の上で、最後にもうひとつ書き残しておきます。
みじかい期間でしたが、わたくしの長州にかかわる伝記的歴史小説を気に入られて、そのたびに短評を添えた礼状をいただきました。調子に乗って久坂玄瑞を書いた『花冠の志士』(文藝春秋)の帯につける推薦文をお願してしまいました。快諾されて「拡大コピーを届けるように」との連絡が担当編集者にあり、急遽A3判用紙に活字を拡大したゲラができました。河上先生が亡くなられる前年のことです。衰えかけた体調を押しての作業だったことを、私は知りませんでした。
約600枚の作品を、そのようにして読んだ上で、400字足らずの推薦文を書くというのは、単に誠実というだけでない、著述家としての厳しい姿勢にほかならなかったのです。先生の命を縮める一因ともなったのかもしれないと、今にして気づくというのも愚かの極みであります。推薦文は次のとおりです。
「古川薫氏の史伝物はいつも愛読している。そこでは開明的志士桂小五郎でも、保守党の首魁椋梨藤太でも、ともにその心情の底に同じやうな愁ひ、共通する悲しみが流れている。それは作者自身の肌合ひでもあろうが、私には郷土の土の匂ひといった人間味を感じさせる。 (略)」 わたくしは河上先生から色紙をいただいています。それには「西赤関/在大沢」(西赤関に大沢あり)と墨痕あざやかに書いてあります。
赤関とは下関のこと。「松陰先生がそう呼ばれていたのだよ。大沢とは君のことだ」とありがたい言葉を添えて下さいました。これは過褒にちがいありませんが、わたくしにたいする最大の激励として、秘蔵しております。 (古川 薫)
つぶや記 24
君はいくつになりますか
前回「河上徹太郎と中原中也 ー その詩と真実」展で、書き漏らした話をします。わたくしは昭和51年の春、「新潮」編集長の坂本忠雄さん(現開高健記念館長)の紹介により下関で、晩年近い河上先生にお会いしました。そのときのことです。
偶然、河上先生と差し向かいでコーヒーを飲む機会がありました。偉い人の前で、私が無口になっていますと、沈黙を破るように先生が話しかけてこられました。
「君はいくつになりますか」
これですよ。この質問。わたくしはいつか年下の人に、親しみをこめてさりげなく、こんな質問がしてみたいと、かねてから思っているのですが、できませんね。それが人間の貫禄というものでしょう。
そのときたしか74歳の河上先生から、
「君はいくつになりますか」
と年齢をたずねられて、わたくしはたじろぎながら、「50になります」と答えました。わたくしは直木賞を何度か落選したころでしたので、「恥ずかしながら」というほどの気持ちをふくめて、そう答えたのです。
「若いなあ。いいねえ」
まるで感嘆まじりに言って、先生はわたくしに頬笑みかけられました。
それ以上のことは、なぜか記憶が消えてしまっていますが、「君はいくつになりますか」という河上先生の問いかけは、その後長い歳月、今もですが、わたくしの脳髄のなかでリフレインしているのです。
あヽおまへはなにをして来たのだと・・・・・・
吹き来る風が私に云ふ
中也詩『帰郷』の一節と重なって、「君はいくつになりますか」という河上先生の声が折にふれてはよみがえり、わたくしの肩を揺さぶるのです。
これ、わたくしの詩と真実であります。 (古川 薫)
つぶや記 23
誇り高き中也記念館
山口市の中原中也記念館の特別企画展「河上徹太郎と中原中也ー
その詩と真実」が、ひらかれています。わたくしは昭和51年の春、「新潮」編集長の坂本忠雄さんの紹介により下関で、河上先生にお会いし、以後みじかい期間でしたが、懇切なご指導をうけました。
当時、河上先生は「新潮」に山口県の郷土史にかかわる『歴史の跫音』を連載しておられました。音楽評論家として、また小林秀雄とならぶ文芸評論家として文壇の最先端をあゆんで来られた河上先生が、昭和43年(1968)『吉田松陰 武と需による人間像』を著作に加えられたときは、ふとしたおどろきを感じたものでした。
以後『憂い顔のさむらいたち』、さらには晩年にむかうころ『歴史の跫音』にとりかかられたのです。それはふるさとへの回帰ということでしょうが、わたくしは先生が岩国人という事実とむすびつけて、晩年の著述活動をながめておりました。
関ヶ原合戦での毛利氏敗北にからんで、岩国吉川家と萩本藩との冷たい関係は幕末までつづきました。岩国人の長門部にむける屈折した視線が、先生のふるさと回帰と共に雪解けを迎え、郷土史への筆の冴えは熱を帯びて、大内氏までにも広がっていきました。『歴史の跫音』のあとがきにある次の言葉が印象的です。
「先祖の流した血の上に私の血の匂いを嗅いだ。彼らの行動や愚行の中にただならぬ私の性癖を露に感じた」
司馬遼太郎氏の長州ものと、河上先生のそれが根本的に質を異にするゆえんであります。それにしても中原中也との微妙にして親密な交友、ヴェルレーヌの『叡知』を訳し、モーツアルトの歌劇を論じた名著『ドン・
ジョヴァンニ』の河上徹太郎が郷土の人であるという誇りを高く掲げた
展覧会を観て、田中絹代ぶんか館の一員たるわたくしは、展覧会とは
かくありたいと思いながら、炎熱の山口盆地から帰ってまいりました。
(古川 薫)
つぶや記 22
シルバーベア
べルリン国際映画祭で銀熊賞をもらった寺島しのぶさんが、テレビのトーク番組に出演しておられるのを見ました。そして彼女が抱いていたのが、シルバーベア(銀熊)なのでした。
そっくり同じものが、田中絹代ぶんか館に展示されているのは、ご存知のとおりです。日本人女優がこの賞をもらったのは、田中絹代いらい実に35年ぶりの快挙であります。ベルリン国際映画祭は、毎年ベルリンで開かれる国際映画祭です。
ベネチア、カンヌの映画祭より歴史はやや新しく第1回は1951年
(昭和26年)でした。『十二人の怒れる男』(シドニー=ルメット監督)、『野いちご』(イングマール=ベルイマン監督)ほか時代の先端を切り拓く監督たちに金熊賞を与え、世界の注目を集めました。
日本映画は『生きる』(黒澤明監督)が銀熊賞を、『武士道残酷物語』(今井正監督)が金熊賞を受け、さらに『サンダカン八番娼館・望郷』
(熊井啓監督)で、田中絹代が銀熊賞(最優秀女優賞)を獲得したのです。
『ローマの休日』のヘプバーンを押しのけての受賞でした。このたび寺島さんの受賞は、他の女優のキャリアや演技力とくらべて、やや意外という感はぬぐえません。戦争という現代のシビアな課題に沿う内容が加勢したのでしょうか。「運」ということでしたら、絹代も強運の人でしたが、『サンダカン八番娼館・望郷』の受賞は、むろん運というものではありません。 ところで寺島さんが抱いた可愛いシルバーベアは、純銀の艶を帯びた
輝きを、みずみずしく放っていました。当館の同じトロフィは、少し錆びが浮き出て変色しています。その古びも得がたい歴史の光彩として、そのままにしておくのが自然というものでしょう。トロフィと共に写る病み疲れた絹代の写真取替えとは別次元の問題として、宿題としておきます。
(古川 薫)
つぶや記 21
女優の美しい顔
田中絹代の投げキッスでヒステリーを発した新聞の罵詈雑言は、40歳だった絹代の顔に「老醜」が浮かぶとまで言いつのりました。
「鎌倉山の崖から飛び降りて死んでしまいたいと、何度思ったかもしれません」
後年、絹代はそう述懐しています。しかし彼女は理不尽な非難を受けて自殺するようなやわな人間ではありませんでした。そしてその身辺には、あたたかく見守り、はげましてくれる人々もいたのです。たとえば溝口健二監督がそうでした。
溝口監督は、谷崎潤一郎原作の「蘆刈」を映画化する『お遊さま』
(大映)の主演絹代を起用、「田中絹代はこんなにも美しい女優だと、
みんなに分からせてやります」と言い、宮川一夫カメラマンと熱のこもったコンビを組んで、この映画は出来上がりました。残念ながら谷崎文学の複雑微妙な世界を描ききれないで高い評価は得られませんでしたが、磨き抜かれた美しい絹代に会いたいと思う人は見逃すことのできない作品です。
さてところで、田中絹代ぶんか館には、ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞をもらったときの絹代の写真が展示してあります。シルバー・ベアーのトロフィーと共に撮った記念写真ですが、ほとんど素顔に近く、このころすでに病んでいた絹代の顔は65歳の老いが色濃くにじんでいます。
病んだ絹代には、化粧する気力もわかなかったのでしょうか、病み疲れた素っぴんを写されるという女優として、実に不本意な結果となりました。この写真を見た俳優・監督の奥田瑛二氏に意見を伺うと「絹代さんには気の毒な展示ですね」と感想をもらしておられました。問題の写真は保存することにして、女優田中絹代の最高に美しい顔と取り替えたいと思うのですがどうでしょう。 (古川 薫)
つぶや記 20
投げキッス事件
今回も念のため広辞苑のお世話になります。「投げキッス」の項を引くと、次のように解説がしてあります。「指先を自分の唇に当て、その指を相手に向って投げ送る身ぶり」
田中絹代の投げキッス事件が、派手な新聞報道となったとき、わたくしは24歳でしたから、いわばサッカー試合で日本チームが点を入れた瞬間くらいの騒然とした空気を、今もあざやかに記憶しています。
絹代が親善使節として渡米したのは、昭和24年(1949)10月でした。羽田空港のパン・アメリカン機のタラップをのぼる絹代の衣裳は、「宮本武蔵」のお通を真似て豪華な古代ものを使った小袖姿でした。そして翌年1月19日午後1時15分、羽田空港着の飛行機から降りる彼女の衣裳は、エンジのベレー帽、格子縞のアフターヌーン、ドレス、銀狐のハーフコート、赤いハイヒール、銀のイヤリング、そして黒のサングラス、首にはハワイみやげのレイをかけていました。各紙は「あちらじこみのニュールック」と、書き立てましたが、「マイアミ海岸ならいざしらず、真冬の日本でサングラスとは」と、まず一発、さらに銀座のパレードで歓声にこたえ、絹代が投げキッスしたことで、新聞の怒りと嘲笑が最高潮に達し、「アメリカかぶれ」「ぞっとする不潔な印象だった」と、異口同音の中傷記事が紙面に躍ったのでした。
鬼畜と呼んで憎んだかつての敵国軍を笑顔で迎え、ジープに手を振る屈辱の四年がすぎていました。日本人の屈折した思いが、絹代の投げキッスを見て爆発したのでしょうか。しかもその罵声はエスカレートして、40歳の絹代に向って「老醜の浮かぶ顔」などと、女優が最も気にしていることを投げつけたのです。あと次回。 (古川 薫)
つぶや記 19
camera-eye
広辞苑によると、カメラ・アイcamera-eyeとは「カメラ・フィルムなどの性能や撮影条件などから、写真として仕上がった画像を想像できる能力」とあります。
最近はデジタル・カメラという重宝な電子光機器をだれもが持っています。その場で構図をたしかめ、シャッターを押すのだから、「仕上がった画像を想像できる能力」は特別必要としないーーーと言いたいが、やはりそうはいきません。つまり天性の能力で選んだカメラ・アングルこそが傑作の映像を創り出すのです。要するに絵心ということでしょうか。機械は構図の決定までは手伝ってくれないからです。
さきごろ「三国志の旅」に出かけた人々によるフォト・コンテストがおこなわれ、その作品展が下関のシーモールで催されています。いわゆる素人離れした作品がそろっているのは、このごろめずらしいことではありません。
ツアーでの撮影は時間制限の悪条件があり、スナップが主流になりますが、それでも目をみはるような作品がありました。推薦作品になった梶間澄子さんの「五丈原の丘行く」は、村の農民を添景して古戦場を俯瞰した傑作でした。
それが空港で買った使い捨てカメラで撮ったものだったとは、おどろきです。高級カメラによらず「傑作は中級カメラから」というプロの随筆を読んだことがありますが、まさしくその通りで、このたぐいのカメラの性能がアップしたことを実証するとともに、やはり絵心の勝利であることを物語っています。この話、田中絹代に結びつけるつもりでしたが、紙数が尽きたので次回にまわします。 (古川 薫)
つぶや記 18
流転の王妃に会いたい
こないだ舞い込んできた分厚いダイレクト・メールは、「名盤浪漫想」と
いう名曲・名画をDVDやCDの何枚組かに編集したもののカタログでし
た。その中に田中絹代の出演映画をDVD化したのが売り出されていて
「田中絹代生誕100年キャンペーン」「昭和の大女優が巨匠たちと残した
傑作選」とあります『マダムと女房』『春琴抄』『愛染かつら』などおきまりの
作品が並んでいます。それら絹代の主演作品のほかに、田中絹代監督
作品があるのですが、とくに『流転の王妃』を未見の人も多く、見たいとい
う声しきりです。 幕末、幕府に追われて下関に逃げてきた勤王の青年
公家中山忠光は、はじめ長府藩に庇護されましたが、もてあました長府
藩の手で暗殺されてしまいます。(暗殺現場は豊北町滝部) 忠光が落
命したとき、侍女恩地トミは懐妊していました。遺児仲子(南加)は、中山
家が引取り、嵯峨家に嫁ぎます。仲子の孫娘嵯峨「浩」が、やがて満州の
ラスト・エンペラー愛新覚羅溥儀の弟溥傑のところに嫁ぐことになります。
やがて終戦。浩が書いた自伝『流転の王妃』を、田中絹代が監督、映画
化(同名)され、昭和の秘史として大きな話題となりました。悲劇のヒロイ
ン愛新覚羅浩と愛新覚羅溥傑の墓は下関市綾羅木町の中山神社(中山
忠光の墓所)境内にあるのです。絹代にとっては、自分のふるさとに関わ
る歴史と人物を映画化するにあたっては、特別の思い入れがあったに違
いありません。わたくしもぜひ下関でこの作品が見たいのですが、テープ
にもDVDにもなっていません。フィルムからこれを起こすためには、かな
りの制作費が必要で、今のところ計画が頓挫しています。流転の王妃に
会えるのは当分先のことになりそうです。 (古川 薫)
つぶや記 17
絹代繚乱
6月22日、田中絹代ぶんか館は、1万人目の入館者(防府市の白川
千津子さん)をお迎えしました。白川さんは大の田中絹代ファンで、この
偶然の幸運におどろいたり、喜んだりでした。わたくしは1万人目の入館
者認定証に添えて、サイン入り著書『花も嵐も』(文春文庫)、それに絹代
が『サンダカン八番娼館・望郷』で受けた銀熊賞のトロフィをスケッチした
下手な絵に「絹代繚乱 田中絹代」と書いた色紙を差し上げて、白川さん
の幸運を祝福しました。絹代も強運の人でした。大阪の琵琶少女歌劇団
にいた絹代が、映画女優にあこがれたころの大正12年(1923)に関東
大震災があり、東京の撮影所が京都に移リました。絹代が松竹下加茂撮
影所に入社したのは、その翌年です。 映画のほうから絹代に接近して
きたのです。運の強い人には天変地異までが味方を するということでし
ょうか。成功する人の条件のひとつが「強運」だということを、それからの
彼女の行路に数多く見ることができます。
さて開館いらい4カ月で1万人という入館者は、想定を倍近く超える数字
ですが、喜んでばかりはいられない。問題はリピート(再訪)する人がどれ
だけいるかということでしょう。潜在する今ひとつの問題は、絹代に親
近 がふさがれます。先人顕彰活動感をいだくある年齢層だけにサポート

されていては、展望 の本質、また文化芸術
との触れあいを深める文化施設としての存在
こそが、市民の利用を促進するのだと認識して
おきましょう。 (古川 薫)
つぶや記 16
「みすヾが生きていたら」
朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰯の 大漁だ。
浜は祭りの やうだけど 海のなかでは
何万の鰯のとむらひするだらう。ーーー
金子みすヾの『大漁』です。正直に言って、わたくしはこの詩をしんから
好きになれませんでした。大漁でにぎわう港の風景を歌う童謡としては、
暗い影がひそんでいるように感じられるからです。これに曲をつけるとし
て、子どもたちと一緒に、明るく歌えるのだろうか、な どと考えふと戸惑
いを覚えるのです。これを詠むみすヾの視線は、おとなたちの、つまり自
分もふくめて、他の動物を殺してわが命を維持する人間たちのエゴイズ
ムにたいする疑念、ないしは激しい怒りと悲しみがこもっているように思
えるのです。
このごろ毎日のように新聞紙上に躍る「口蹄疫」の大活字を見ているう
ちに、金子みすヾの『大漁』を連想せずには、おれなくなりました。汚染の
傾向を察知するやいなや10頭、100頭の牛を「殺処分」し「埋却」すると
いうむごたらしいニュースが、テレビに新聞に、日常的テンポで流れてい
く 。
宮崎県庁にたずねてみました。6月13日現在、口蹄疫で殺処分された
牛さんは16万7840頭だそうです。
土のなかでは 何万の牛のとむらひ するだらう。
金子みすヾが生きていたら、号泣するかもしれません。7月、田中絹代
ぶんか館では、木原豊美さんの講演はじめ金子みすヾの企画展を準備
中です。時宜を得たというには、かなしいタイミングですね。
(古川 薫)
つぶや記 15
「東京奇兵隊」
菅直人さんは山口県にとって、伊藤博文から数えて県出身9人目の総
理大臣のはずです。しかし、いまいち歓声があがりません。
6月9日の新聞に載った「菅内閣の顔ぶれ」を見て気づくのですが、菅
総理の選挙区は「東京18区」となっています。地方人の場合は、三重1
区、長崎1区というようにそれぞれ県別の出身地をあらわしています。
菅総理は高校生のとき宇部から東京に移り、人生の大半をその地です
ごした「東京人」です。いまいち歓声があがらない理由は、そのあたりの
微妙な心理が県民にはたらいているからかも知れません。
ずっと以前、田中絹代さんと木暮実千代さんが先帝祭に参加されたこ
とがあります。たしかそれにちなんで、会場を下関においたNHKのクイ
ズ番組があって出演した木暮さんに、アナウンサーが「木暮さんも下関で
したね」と聞いたのです。すると、「いいえ、私は東京です」という返事でし
た。彼女が彦島で生まれたこと、梅光女学院を出ていることを知っている
下関の人々は少しく憮然といたしました。昭和29年発行の『映画百科辞
典』にも木暮さんは下関出身とあります。東京ですと強調するのは、東京
で暮らしている女優の見栄と見ました。東京で「イナカ」というのは蔑称で
しかありませんから。
東京を選挙区とする菅総理はどうなんでしょうか。こと選挙となれば、や
はり木暮さんと同様な心理がはたらくのかなと思っていたら、初会見で
「奇兵隊内閣」とみずから命名されたのは愉快でした。菅さんは高杉晋作
を忘れていない。やはり長州人でした。 (古川 薫)
つぶや記 14
「反魂丹クスリ袋の河豚」
出版社のPR誌が送られてきます。宣伝ばかりでなく、ページの大部分
は一般寄稿家のエッセイや論文、小説などに割かれています。とくに岩
波書店の「図書」がいいですね。日ごろカタイ本を読むことが少ないの
で、この手ごろの雑誌を暇を見つけては読むようにしています。けばけば
しく飾りたてず知的な遊びの趣を凝らした表紙も好ましく、毎号が楽しみ
です。またその裏側の解説文を味わいながら勉強もさせてもらっていま
す。
このところフランス文学者の宮下志朗さんが担当しておられ、6月号の
表紙は、昭和初期の薬袋です。越中富山の「反魂丹」は、「ハナクソ万金
丹」などと共に、わたくしたちの年齢の者には、かすかな子ども時代の記
憶があります。宮下さんの話は、いきなりフランス語の「毒消し」からはじ
まります。さらにモリエールの喜劇『病は気から』にうつり、ルネサンス時
代には「毒消し」が行商人の意味でも使われていたとか。本の商いと薬
の商売が結びついていたとはおどろきですが、何か意味ありげでもありま
すね。反魂丹とは死者の魂を呼び戻す、死者を蘇生させるといったことも
教えられました。
さて6月号の表紙に紹介された薬袋に「ふぐたこ印」とあり、ラベルの下
のほうに、河豚と蛸がユーモラスに描かれています。反魂丹が河豚中毒
の応急薬と思われていたなつかしいムカシの話。ともあれ「図書」のこの
表紙に目を吸われたのは、わたくしが河豚の本場下関の市民だからであ
ります。 (古川 薫)
つぶや記 13
「三国志とパンダ」
38人の「三国志の旅」ツアーを組んで、中国に行ってきました。武漢・成
都・西安を飛び、孫権・劉備の連合軍が曹操ひきいる大軍と戦った「赤
壁」、また諸葛孔明最期の地「五丈原」を踏査、三国志のふたつのクライ
マックスを想望し、古戦場のバーチャル・リアリティーに引き込まれまし
た。
それにしても中国の人は歴史上の著名人物の石像、銅像を作るのが
好きで、いたるところにそれが目立ちました。どこの国でも同じことをして
いるのですが、中国のは特別の感じを抱きました。特に三国志関係が多
く、英雄崇拝の風潮は現今の政治情勢とも関係があるのか。わが国にも
それがいえるようですが、それにしては巨大な石像、銅像が少ないの
は、中国のように国家の事業で偶像が建てられないからでしょう。
しかし史跡に”人形”ばかり据えると、作り物の感じが臭って、興をそが
れることにもなります。下関市のみもすそ川公園のレプリカ長州砲5門は
多い。前田砲台が世界遺産へ近づいたという朗報を聞きましたが、その
あたりのことも一考の余地ありでしょうか。
西安では、三国志とは無関係の兵馬俑抗の圧巻に舌を巻き、成都で
は、各国観光団がおしかけるパンダ公園の盛況にもおどろきましたが、
上海空港は万博にもかかわらず意外に人影まばらでした。さてところで、
三国志の英雄像やランド・マークのパンダ像を見ながら、田中絹代の胸
像くらいはぶんか館に欲しいものだと、思ったことも付け加えておきます。
(古川 薫)
つぶや記 12
「男のすなる映画監督」
レニ・リーフェンシュタール監督は世界最初の女優監督です。女優にし
て監督というのは1930年代では他に例がなかったのです。
2002年、ドイツのケルンで田中絹代の監督作品が上映されたのは、リ
ーフェンシュタール以後、記憶されるべき女性監督のひとりという評価の
あらわれでしょう。
日本古典『土佐日記』の冒頭に「男も(の)すなる日記(にき)といふもの
を、女もしてみむとしてするなり」とあります。紀貫之は男ですが、女の語
りにしたところに、日記を書く風習も男性社会が占有していた当時の事情
がにじんでいます。田中絹代の時代も映画監督が「男のすなる」職業だと
いうことを、だれも疑いませんでした。それを絹代がやるといいだしたと
き、映画界に衝撃が走り、さまざまな抵抗にも遇います。田中絹代はつい
に監督の座を獲得いたします。女性の社会進出がめざましいこんにちで
も、なお「男のすなる」という現実が残存している限り、絹代のこの挑戦は
すばらしい模範となりましょう。
このごろ女性監督の進出が、ようやく目立ちはじめました。最近、第1
回作品『カケラ』の上映で来関した安藤モモ子監督もそのひとりです。若
い女性が、おそらく若い人を対称に作った映画ですが、この老齢の男に
も充分な共感がもてました。わたくしの目には、若者の崩壊感覚を、必死
にささえようとしている監督の姿勢が、実にさわやかでした。モモ子さん
は田中絹代につづく希望の星です。応援してあげてください。
(古川 薫)
つぶや記 11
『民族の祭典』を見る
下関市文化協会創立40周年記念行事のひとつとして上映されたドイ
ツ映画『民族の祭典』を見ました。これはベルリン・オリンピック(1936)
の記録映画です。聖火リレーや優勝者に金メダルを与えるなどはこの第
11回から始まりました。
ナチスの宣伝・謀略といういわくつきの大会でしたが記録映画そのもの
は、レニ・リーフェンシュタール監督による最高傑作という国際評価不動
の古典作品でもあります。ヒトラーの思惑や時空を超えるもの、それが芸
術なのだとの思いを深くいたしました。
わたくしは小学校の5年生のとき引率されて鑑賞したのですが、その後
も何度か見る機会がありました。圧巻は日本の西田・大江両選手とアメリ
カのメドウス選手が、延々5時間にわたる死闘をくりひろげた棒高跳びの
決勝です。夕闇せまるフィールドで、影絵となって宙を跳ぶ日米のアスリ
ートたちの姿が、今も脳裏に焼き付いています。結局メドウスが金メダル
を獲得、西田が銀・大江が銅となりましたが、帰国後2人はメダルを切断
し、銀銅半々をつなぎあわせて"友情のメダル"にした美談も忘れられま
せん。リーフェンシュタールの回顧録を読むと、その熱戦を直後に知った
彼女が、決戦を再現してもらい収録したとのことです。注意深く見ても継
ぎ目は分かりませんでした。 (古川 薫)
つぶや記 10
記録保持者
わが国最初の女優にして映画監督という田中絹代の経歴は永遠に動
かぬ記録です。いきなり私事にわたり恐縮ですが、わたくしのささやかな
記録といえば、直木賞受賞の最多候補回数、さらに最年長受賞のふた
つで、これはむろん競うといった類のことではありません。それについて
先日、朝日新聞の朝刊に次のような記事がでていました。
「直木賞を主催する日本文学振興会は21日までに、同賞の最年長受
賞者の記録を故・星川清司さんの68歳に改めた。星川さんが生前19
26年生まれと公表していた生年が実は21年であったことを、遺族に確
認したという。これまでのランキングでは古川薫さんの65歳での受賞が
1位とされ、星川さんは史上4番目の年長受賞とされていた。」
翌日,NHKのニュースでもこの話が取り上げられるとは、まことに恐れ
入ったことであります。同じ日の新聞に、ナチスのためオリンピックに
出場できず、記録を抹消された陸上競技の女性選手の記録が74年ぶり
に復活記録されたという記事がでていました。
わたくしのばあい記録蟹改更の感想をたずねられ、「だれかこのあまり
自慢できない記録を破ってくれないかと、20年間ひそかに願っていたこと
が実現して、肩の荷をひとつおろした気持ち」と答えておきました。まだ最
多候補という荷物が残っていますが、高齢化社会が深まっているので、
そのうちこのもうひとつの記録もだれか破ってくれるだろうと期待しており
ます。 (古川 薫)
つぶや記 9
最年長記録を返上します
4月9日、日本文学振興会から電話があり、これまで古川薫氏は直木賞
最年長受賞となっていたが、その記録を訂正するというのでした。事情は
同日付・朝日新聞朝刊記事を借りて説明いたします。
「『眠狂四郎』シリーズの脚本や小説『小伝抄』などで知られた脚本家・
直木賞作家の星川清司(本名・清)さんが、肺炎のため2008年7月25日
に東京都内の病院で死去していたことが分かった。家族によれば1926
年と公表してきた生年は実は21年で、亡くなったのは86歳だった。この
ため、90年の直木賞受賞時には68歳だったことになり、65歳で受賞した
古川薫さんの持つ受賞最年長記録が更新されそうだ。(略)」
大騒ぎすることではありません。ただ、わたくしにとっては、この20年間
いつも「最年長受賞」と紹介されるたびに、あまり自慢もできないこの記録
を、だれか破ってくれないかなと、ひそかに望んできたので何だかほっと
した思いです。星川さんすみません。直木賞レース長距離チャンピオンの
座をお譲りいたします。田中絹代ぶんか館の古川紹介文のほうも訂正と
なれば厄介だなと調べてみましたが、そのほうの表示はありませんでし
た。 (古川 薫)
つぶや記 8
凛とした風姿
こないだ毎日新聞日曜版文化面の「原田美枝子ー聞き書き」「映画に生
きて生かされて」を読んでいたら、田中絹代さんの第一印象について「凛
とした、という言葉がピッタリの方でした」と語られていました。
原田美枝子さんも田中絹代賞受賞女優のひとり。受賞のことばは「田
中絹代さんは一つ一つの映画に命をかけていました。私も一本一本丁寧
に演じていきたい」でした。
先日、ぶんか館に来られた高橋恵子さんも「凛とした女優でありたい」
という意味のことを話しておられたのを思い出しました。すっくと背筋をの
ばした長身の高橋さんの姿は、文字通り「凛とした」感じです。
女優さんのそんなすがたを、「風姿」というのでしょう。「なりふり。すが
た。端正な風姿」と辞書は教えています。このことばは古くからのもので、
中世以降の芸術論では、芸術的美をあらわした姿をいいました。世阿弥
の著書『風姿花伝』が有名です。芸能人にとってはバイブルのような本で
すから、心ある人はみんな読んでいるはずです。
芸能人でなくとも、また外形によらずとも、わたくしたちも凛とした風姿
を、心のなかに蓄えておきたいなどと、柄でもないことをふと考えたので
あります。 (古川 薫)
つぶや記 7
長谷川修さんの『舞踏会の手帖』
長谷川修さんとは、『真赤な兎』で芥川賞候補になられたころから、15
年間の親しいおつきあいでした。
酒はあまり飲まれませんでしたが、わたくしたちは、酒席での奇想に満
ちた長谷川さんの話を聴くのが楽しみでした。
亡くなられる直前の1979年(昭和54年)4月、中央病院の病室に見舞
いにいきました。長谷川さんはガンにかかっておられたのですが、病床に
立膝して、元気な声で対応してくれました。
「こうしていると膝のあいだから、エネルギーのしずくがポタリポタリと落
ちていくような気がするんだよ」
いかにも長谷川さんらしいその述懐が記憶にこびりついています。
最近、「季刊分科」43号に『舞踏会の手帖』が、名作再見として収録され
ているのを読みました。わたくしも大好な長谷川作品のひとつです。
「昔の僕たちの恍惚を、憶えているかい?」このリフレインがあのころの
ことを、望郷の思いのように呼び戻してくれました。いまさら下関が生ん
だ異能の作家の夭折が惜しまれてなりません。いずれぶんか館で長谷
川修の世界展をやりましょう。 (古川 薫)
つぶや記 6
高橋惠子さんを迎える
第64回「田中絹代賞」受賞の高橋惠子さんが、3月31日、田中絹代ぶ
んか館にやって来られました。
高橋さんは長身の美女、いつも背筋をのばした姿勢がよく、文字通り
「凛とした」女優の印象があります。『おさな妻』でゴールデンアロー賞新
人賞を受賞、華々しく銀幕にデヴューした美少女・関根恵子の面影も濃
厚でした。
話していて、誠実な人柄を感じました。田中絹代さんの遺品群を見ての
感想は「新しいものに挑戦する絹代さんの気魄を実感しました。大きな賞
をいただいた女優にふさわしい自分になっていきたい」とのことでした。
女優として常に心がけていることは、「狎(な)れないこと」だそうです。
わたくしたちにとっても、自戒をうながす処世哲学で、いいことを聞いたと
思いました。拙著『花も嵐もーー女優田中絹代の生涯』をさしあげました。
いずれ絹代さんのお墓参りで、下関を再訪したいとのことでありました。
(古川 薫)
つぶや記 5
ハート・ロッカーとアバター
毎日映画コンクールの「田中絹代賞」が決まるころ、アメリカではアカデ
ミー賞の下馬評が白熱がしていました。つまり『ハート・ロッカー』と『アバ
ター』のいずれに軍配があがるかということは、日本国内でも話題しきり
でした。
昨年は『おくりびと』の受賞で大いに沸きました。わたくしは、この作品
がまだあまり注目されないころ、下関のシアター・ゼロで見たのですが、
その直後、受賞の大ニュースとなったのは、きのうのことのようです。アカ
デミー賞は外国のお祭りといった気持ちもしていたのですが、あれいらい
急に身近な映画賞となりました。
そんなことでこんどの『ハート・ロッカー』と『アバター』には、いつにない
興味を抱いていたのです。最近、暇をみつけて小倉のチャチャ・タウンに
足をはこび、ハシゴして両作品を鑑賞しました。批評的言辞はやめます
が『ハート・ロッカー』に軍配があがったのに納得し、加治町の「仏蘭西
軒」で祝杯をあげて帰りました。 (古川 薫)
つぶや記4
女優監督としての国際的評価
田中絹代の監督作品は、『恋文』『月は上りぬ』『乳房よ永遠なれ』『流
転の王妃』『女ばかりの夜』『お吟様』の6本です。
いずれも水準を超えるもので、女性ならでは描けない世界を見せたとし
て高い評価を得ました。最近,欧米で田中絹代への注目度が高まってい
ますが、特に監督としての彼女に対する関心が目立っています。
女優の身で監督の仕事をこなした女性は、数えるほどしかいないこと
に、今さら気づいたということでしょうか。女性進出、女性の自立が、あら
ためてテーマとなったこんにちの社会現象が、その背景にあると思われ
ます。
ベルリン・オリンピック『民族の祭典』を作ったリーヘンシュタールは、著
名な女優監督のひとりです。田中絹代はその人と肩をならべて、世界映
画史に刻まれているのです。
2002年にはドイツのケルン市で、絹代の全監督作品が上映されまし
た。下関の映画祭でも、絹代の監督作品を積極的に上映したいもので
す。愛新覚羅家と関係の深い下関でこそ、『流転の王妃』の上映が望ま
れます。 (古川 薫)
つぶや記 3
NHKラジオ深夜便
3月17日、横浜のニッサン新ビルのホールで「日本近代史に残した久
原・鮎川の足跡」と題して講演しました。拙著『惑星が行く』(日経BP社)で
書いた山口県出身の久原房之助と鮎川義介について話せとの注文に応
じたものです。ヨコハマの夜景を見てきました。
上京の機会にということで、NHKラジオ深夜便に出演、19日午前1時
10分から午前2時まで田中絹代についてしゃべりました。
夜には強いはずでしたが、なにしろ全国数百万の人が耳を澄ましてい
るというラジオ深夜便です。緊張してしまい、そのうえ少し風邪気味で、
のどが嗄れ、聞き苦しい声になったのではないかと気になりました。迎康
子アナウンサーにいたわられながら、絹代さんの生い立ちからトップスタ
ー、また監督としての活躍。さらに主題歌『花も嵐も』なども挿入する盛沢
山の50分間でした。田中絹代ぶんか館についても、しっかり宣伝してきま
したよ。 (古川 薫)
つぶや記 2
等身大の田中絹代カレンダー
ペルーは、南アメリカ太平洋岸中部の共和国。ブラジルより9年早い
1899年(明治32年)から移民を受け入れ、日本人も多くペルーに渡りま
した。現在6万人が暮らしているといわれます。
先日、戦前ペルーに住んでいたという老婦人から電話をいただきまし
た。田中絹代の『愛染かつら』に、ペルーの日本人も熱狂したので、なつ
かしい思い出だが、特に忘れられないのは、田中絹代のカレンダー、そ
れも等身大の大きなものだったそうです。 どのような経緯でそれが作ら
れたのかは分かりませんが、遠い祖国への郷愁がそのようなかたちとな
ってあらわれたのでしょう。
田中絹代ぶんか館のエレベーターを2階で降りたら、等身大の和服の
絹代さんが出迎えてくれます。ペルーの田中絹代カレンダーの壮観を味
わうことができます。現物が遺っていたら復元したいものだと思っていま
す。お持ちの方あれば、ご一報を。 (古川 薫)
つぶや記 1
田中絹代ぶんか館も開館から約一ヵ月、入館者の数も安定の様子で、
館員一同まずはほっとしています。まあこれからが大事、充実した活動を
展開しなければなりません。閲覧とは別に、館内施設の利用状況は、ど
うでしょうか。三階の休憩室はよろこばれているようです。市民の皆さん
のご利用をお待ちしています。次にミニ・ホールの活用は順調で、DVDス
クリーンも完備しており、小回りのきく独特の機能を発揮しそうです。小集
会・文化講座・映写会など多様な利用法を計画中です。予定表満杯とい
う日も遠からずと予想してます。
階下の文学コーナーについては、もう一工夫が必要と思われます。いろ
いろご意見も寄せられ、性急なお叱りもあるようですが、なにしろ開館後
日も浅く、これから運営の手順にも慣れてから、本腰を入れてということで
あります。暖かく建設的なご意見をどしどしお寄せください。そのうちきっ
といいものにしてみせますよ。 (名誉館長 古川 薫)









