田中絹代ぶんか館で展示している展示品をご紹介します。
1階 ふるさと文学館
文学者紹介パネル
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下関ゆかりの作家 著書
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下関市にゆかりのある近代以降の文学者とその作品、
また、下関が登場する作品を紹介します。
2階 田中絹代記念館
小物入箪笥
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半えり ※和服の首にあたる部分に付けて使用するえり。
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出演作 台本
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下関市が所有する田中絹代の調度品や衣服などの遺品をはじめ、
出演作の台本、ポスター、スチール写真など貴重な映画資料を展示。
田中絹代ぶんか館の内部を紹介します。
1Fは「ふるさと文学館」、2Fは「田中絹代記念館」
3Fは「休憩室」となっております。
画像の各施設名をクリックすると詳細画像がご覧になれます。
田中絹代ぶんか館名誉館長 古川 薫 氏の著書をはじめ、
郷土出身の作家の作品、資料等を展示。
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女優・田中絹代の愛用品や、台本などの絹代が出演した映画資料等を中心に、
映像展示も導入。
施設来訪者が快適に集い利用できる屋上休憩室。
旧逓信省下関電信局電話課庁舎
中庭を囲んで北棟があった。
(北棟は平成8年に解体)
屋上の様子
特徴的なパラボラアーチの赤い屋根は
当時最新式の防火水槽だった。
下関市庁舎第一別館は、大正13(1924)年に、旧逓信省下関電信局電話課庁舎として竣工しました。
この建物の特徴は、高さを強調する直線と塔屋や窓に見られる曲線による、シンプルかつモダンなデザインにあります。当時の逓信省営繕課により設計されたこの建物は、ヨーロッパの新建築運動に影響を受けた若手建築家たちによる「分離派建築会」の建築の要素を持っています。
大正末期から昭和初期にかけて全国に建てられた電話局舎は、ほとんどが同様の特徴をもっていましたが、今では、この建物が現存する唯一の建物となっています。
室内装飾
天井のレリーフ
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換気口のモチーフ
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室内に現存する装飾部分。伝統的要素を残しつつも、円や三角などのモチーフを使ったモダンなデザインが特徴的。
大正15年当時の執務風景
2階執務室には、柱の上部や窓際の持送りに、曲線と段を効果的に用いた装飾が見えます。
当時は女性が社会進出を始めたばかりで、電話局に勤める女性電話交換手は花形の職業婦人でした。
局舎の3階はオルガンや読書台が置かれた休憩室で、今はない北側の建物には裁縫などを習う訓育室、蓄音機の置かれた畳敷きの休憩室などもあり、女性の教育と福利厚生に十分な施設を備えていました。
建物の歴史年表
大正十一年(1922) | 逓信省営繕課による設計、工事着工 |
大正十三年(1924) | 逓信省下関電信局電話課局舎として竣工 |
昭和二年(1927) | 鉄筋コンクリート造による北棟が増築 |
昭和二十年(1945) | 下関空襲 唐戸一帯が焼失被害 |
昭和四十一年(1966) | 新市外局庁舎へ機能移転 |
昭和四十四年(1969) | 下関市の所有となる |
昭和四十五年(1970) | 福祉センター開設 |
昭和五十一年(1976) | 福祉センター廃止 |
昭和五十一年(1976) | 市庁舎第一別館と改称、教育委員会等が利用を開始 |
平成三年(1991) | 建物の老朽化により教育委員会等が退去し、空き家となる。 |
平成五年(1993) | 市が解体方針を決定 |
平成八年(1996) | 老朽化が進んだ北棟を解体 |
平成十一年(1999) | 建物保存に対する市民の盛り上がりを受け、解体から保存へ方針を転換 |
平成十四年(2002) | 下関市有形文化財に指定 |
平成十八年(2006) | 保存整備基本計画策定 |
平成十九年(2007) | 下関市近代先人顕彰館(仮称)開館準備室を設立し、建物改修設計 |
平成二十年(2008) | 改修工事着工 愛称を「田中絹代ぶんか館」に決定 |
平成二十二年(2010) | 田中絹代ぶんか館開館 |
名誉館長 古川 薫(ふるかわかおる)
古川 薫(ふるかわかおる)
大正14(1925)年6月5日~平成30年5月5日 下関市大坪町 生まれ |
山口大学教育学部卒業後、中学校教諭、山口新聞編集局長、企画室長を経て、文筆生活に入る。平成3年藤原義江を描いた「漂泊者のアリア」で第104回直木賞受賞。著書は「暗殺の森」、「花も嵐も女優・田中絹代の生涯」、「斜陽に立つ」など多数。 『花も嵐も女優・田中絹代の生涯』 |
『漂白者のアリア』 |
『斜陽に立つ』 |
女優田中絹代の光と影
女優は齢をとりません。生涯の最も美しい風姿を永遠にとどめる特権をもっています。
「田中絹代ぶんか館」にも絹代の華麗な足跡を証する遺品が、郷土の誇らかな雰囲気につつまれるように展示されています。
父亡きあとの家族を、小学生だった幼い絹代が支えた苦悩 ―それは銀幕の女王として脚光を浴びてからも終生つきまとったのですが―を物語るよすがは、大阪楽天地の少女琵琶歌劇団時代に撮った不鮮明な写真だけに限られています。そこにひそむ女優 田中絹代の光と影の部分を、わたくしたちが決して見逃さないのは、長い旅を終わり、一家を引きつれて下関の墓におさまった彼女にそそぐ郷土人としてのいたわりと親愛の情というものでしょう。この先人顕彰館に飾られている多くの文芸家の業績が、その人々の人生の闘いの結実であることも、田中絹代の生涯と軌を一にするものといえましょう。
わたくしは現役最高齢のゆえをもって、初代名誉館長を命じられました。新しく生まれ変わった館の床を踏んで、こんな言葉を思い浮かべたのです。
「人生は旅だ。途上の旅人が詩人となるように、どんな人生も
一篇のすぐれた詩であるだろう」と。