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下関ゆかりの芸能人

◆藤原 義江(ふじわら よしえ)
下関市近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館
   藤原 義江(ふじわら よしえ)
    (1898-1976)

  明治31年(1898)下関市名池町に誕生。
父は英国人で瓜生商会の支配人をしていたリード。母は琵琶芸者、坂田キク。
オペラ歌手を目指してイタリア留学した後、ロンドンの日本大使館にいた吉田茂の支援を受け、リサイタルを開催しました。これが好評を博し、オペラ歌手としての道を歩み始めます。
 昭和9年(1934)、日本にはそれまで本格的なオペラはなかったのですが、「藤原歌劇団」を創設し、振興に尽力しました。 
 昭和51年(1976)、77歳でこの世を去りましたが、今も「われらのテナー」の愛称で、多くの人々に親しまれています。

 

 ◆木暮 実千代(こぐれ みちよ)

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  木暮 実千代(こぐれ みちよ)
    (1918-1990)

   大正7年(1918)下関市彦島町に誕生。本名は和田つま。梅光女学院へ進み、日本大学芸術科を卒業。生涯で300を数える作品に出演した他、舞台やテレビ、CMなど 幅広い分野で活躍しました。
  また、女優として初めて厚生省から保護司に任命され、群馬県の「鐘の鳴る丘少年の家」の後援会長を勤めるなど、ボランティア活動にも熱心に取り組んだ情に厚い社交家でした。平成2年(1990)、72歳で この世を去りました。

 

◆二村定一(ふたむら ていいち)
下関市近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館
   二村 定一(ふたむら ていいち)
    (1900-1948)

   明治33年(1900)、下関市中之町に誕生。はじめは大阪薬学校に入学したものの、宝塚少女歌劇団に熱中して学校を中退。自らも浅草の根岸歌劇団に入団し、日本で最初のジャズシンガーとして知られるようになりました。
 また、浅草のオペラ館に二村定一・榎本健一二人座長の「ピエル・プリヤント」を結成。浅草レビューの黄金時代を築きました。昭和23年(1948)、48歳で死去。 生涯に吹き込んだ曲目は200曲を超え、「あほ空」「アラビアの唄」「君恋し」などが大ヒットとなり、日本の男性流行歌手の第一号としても知られています。

 
◆林 伊佐緒(はやし いさお)
下関市近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館
   林 伊佐緒(はやし いさお)
   (1912-1995)

下関市王喜本町生まれ。歌手・作曲家。
キングレコードに入社し、歌手と作曲の両面で60年間にわたって活躍。作曲した曲目数は、約600を数えます。また、日本歌手協会の会長を6年間にわたって勤めました。

 

 

※全編「下関の人物」より抄
 

 

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下関市近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館

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