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つぶや記 277
  ウ号作戦の無責任男

  大会社の重役さんたちがズラリと雁首をならべてお詫び会見するのが、このごろ妙にゴウガンな風景に見えてならないのはなぜかと思うことがあります。
  明治維新150年とかで、掘り出してきた古い資料を掲げ、歴史的大事件の責任を他に転嫁する風潮が見えはじめたのでしょうか。
  第2次大戦下日本軍の敗因追及が盛んとなったのも維新150年と無関係ではなく、卑近な例として「インパール作戦」があります。大正末期生まれのわたくしどもは当時少年でしたから、インパールをいう地ひびきが、まだ耳の底で唸り声をあげています。太平洋戦争における最も拙劣且つ残酷だったと記憶されるインパール作戦です。
  ビルマ(ミャンマー)を制圧していた日本軍は1944年(昭和19)3月、インド東北部のインパール攻略を目的として「ウ号作戦」と名付け、3個師団(兵力約6万人)を投じ半分の3万を戦死させました。太平洋戦争中最も拙劣な地獄の作戦とされ、弾薬・食料は欠乏、餓死・赤痢・マラリアによる酸鼻を極めた結果は"白骨作戦"とよばれる拙劣な戦闘でした。
  この作戦には強力な反対論もあったのですが、「貴様ら大和魂はないのか」と司令官牟田口廉也は反対者をすべて更迭しました。悲惨な戦果を見て大本営もついに撤退を決意しましたが、3万という戦死者のほとんどは撤退が始まってからというのは悔しい限りです。
  牟田口は戦後77歳までも生きましたが、死ぬまで「オレは正しかった」と主張してやみませんでした。今もそれを強弁する録音テープが残っています。死ぬまで責任をとろうとはしなかったのです。ナチスのアウシュビッツにも似た男がいましたが、恐ろしいことに、今も昔も、こういう人間はどんな世の中にも生き残っていくのですね。
                                                                              (古川 薫)

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