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田中絹代 思い出のエピソード

皆様からお送りいただいた、田中絹代思い出のエピソードをご紹介いたします。
(個人が特定されるような固有名詞は削除させていただきました。)

エピソードⅢ ~絹代さんに重なる家族との思い出~~

 私の母は今82歳です。私は田中絹代さんの映画やテレビをほとんど知りませんでした。でも母は昔から大ファンで良く映画を見に行っていたそうです。母は田舎の本家の嫁として大変苦労をしていたそうです。それでも映画を見ると辛さも大変さも忘れてしまったそうです。それほど田中絹代さんの映画に感動していたのだと思います。母にとっては人生のオアシスのようなものだったのだと思います。

40代女性(愛知県)

 名作「愛染かつら」が上映されたころ、私は小学二年生でした。
私は当時北九州市若松区の本町という繁華街で生活し、学校への道筋に四五軒の映画館がありました。その一軒が「松竹キネマ映画館」で、ある日館の前に掲げられた上原謙と田中絹代の絵看板を見て、プロマイドを並べたウインドウを覗ききますと、子供心にも悲恋のストーリーが判るのです。急いで帰宅して三人の姉に粗筋を解説すると、この「おませが、見てきたように話すと叱られました。」

  そんなことがあった後、昭和16年の夏でしたが、当時見習士官になったばかりの兄が、門司港から輸送船で大陸に渡るのを、母と見送ったことがあります。真夏に正規の軍装に身を固めた兄の頬を伝う汗を、黙って拭う母の姿は、後に上演された「陸軍」の出征兵士を送る母親のシーンと重なり、胸を打たれたものです。太平洋戦争前夜の緊迫した頃の話です。

  当時清順派は田中絹代、理性派は三宅邦子、妖艶派が木暮美千代と覚えていますが、戦争が終わり彼女が日米親善使節の役を終えて帰朝した時、サングラスに投げキッスのポーズに驚かされました。然し女優としての演技、女性映画監督になった後の映画も、小柄な体から絞り出すような演技に感嘆しました。
一生懸命な姿は清順派を超える「女性の底力」であり、今回一番に顕彰される事を、心からお喜び申し上げます。

70代男性(山口県下関市)

 私は大阪出身です。父は25年前に他界しましたが、日頃「田中絹代さん」が大好きで大阪弁で「ええ女やなあ~」(笑)が口ぐせでした。私自身は「サンダカン8番娼館」で始めて映画を見て、この人なのか・・・と思ったものです。それが3年前に主人の故郷である下関に戻り、田中絹代さんが下関出身であることを知りました。いつかお墓参りに行ってみようと思っています。今年は色々なイベントがあるのですね。父を思い出しながら、イベントにも行きたいです。

50代女性(山口県下関市)

母が生前「私の若い頃は田中絹代にそっくりだった」といつも言っていました。田中絹代さんの名前を見ると亡き母を思い出します。

50代女性(山口県下関市)

田中さんの清楚な美しさを実家の母親が自分の自慢にしていて"愛染かつら"の主演をされた時のことや主題歌を子守歌がわりにいつも耳元で口ずさんでいたので、いつの間にか私も歌える様になりました。確かに若い頃の田中絹代さんによく似ていて、着物が好きな事も相似ていて、母が田中絹代さんのようになりたかったのかなと思いました。今、十月一日で八十七歳を迎える母と一緒に菊川アブニールにフィルムで逢いに行き、昔を懐かしく思い出してもらおうと思っています。

50代女性(山口県下関市)

97歳で要介護5の母は10代の終わりから91歳まで生け花を教えていた。
母が師事する先生のお教室から2名選ばれて、大船の撮影所に行き田中絹代の「花」という映画に出演したが母の自慢でもあった。 相手役が上原謙で、田中絹代が彼に近づいて「司様」というせりふを言うだけの場面で、監督から何度も「もと~い」とやり直しさせられていたと繰り返し語っていた。「あんな短いせりふなのに、何度も注意されて、女優さんは大変だねと思ったよ」というのが母の回顧談の締めくくりであった。 母を喜ばせようと私は「花」という映画のビデオを見つけ出した。吉屋信子原作の映画で田中絹代はいけばな教師の役だった。 どこに母は出てくるのだろうと、目を皿にして画面を見続けていると、絹代が主宰する教室がいけばな展示会を開催している会場場面になった。 そこへ上原謙が現れ、絹代が「司様」と近寄っていった。母の記憶は正しかったのだ。 展示会には沢山の若い女性がいるのだが、残念なことに母の姿は無かった。映画の冒頭に出演者と共に協力者としての小原流、草月流、池坊などの名があった。 各流派の有力な先生方のエキストラとして選出されたのであろう。
母は今、認知症で食べた瞬間にそのことを忘れてしまう状況であるが、田中絹代の映画に出たことは決して忘れない。
「お母さんはきれいだったから選ばれたのね」と言うと「きれいじゃなかったわよ」と答え、嬉しそうな表情をするのも私の子供の頃と同じである。

60代女性(東京都)

今は亡き父が田中さんの大ファンでした。
あまりに絹代、絹代とうるさいものだから、よく母とけんかしてました。
もちろん、母は田中さんが大きらいになりました。

50代男性(栃木県)

姉は戦前からの熱狂的田中絹代ファンだった。幼かった僕は姉に連れられ意味も分からないまま(愛染かつら)を何度も見せられた。上原謙が待っている新橋駅に絹代がタクシーでかけつけるシーンになると、姉は僕の手を力いっぱい握りしめ体を硬くしていた。
戦後も絹代の映画だけは見続けていたようで、たずねると待っていたように一方的に話しまくった。
愛染かつらは別格として彼女の絹代映画のベストスリーは不動だった。(彼岸花)(楢山節考)(おとうと)お気にいりの作品だった。
姉も絹代もいないのが一寸さびしい。姉がいつも話していた言葉を忘れていない。
「田中絹代って独特のナマリがあるのよ。誰も真似できないわ」

70代男性(東京都)

昔、田中絹代さんが、老け役に徹するため歯を抜いたことがあった。
それをマスコミが、役者魂に気圧されたと報じた。
それを知った、私のばあさんがちょうどその頃一挙に歯が四本抜け足を骨折した。
「あれで主演なら、私しゃ主演、兼監督じゃがね」と言って家族皆んなに笑われた。

60代男性(山口県)

 昭和14年頃(1939年)だったと思います。
 その冬今は殆ど降りませんがあの頃は毎年2m位の積雪があり屋根から卸した雪の山で遊んでた処急な腹痛。大型の手押し橇にのせられ市内の外科病院へ。たまたま遊びに来ていた陸軍仕長の叔父に送られ入院早速手術。破裂寸前との事で助かりましたが手術室の暖房が利かず肺炎を起こし2ヶ月入院の余儀なくされました。病院の前の食堂から毎日愛染かつらの曲が流れ病室の小生にとって大いに慰めとなりました。
其の後映画を見る機会があり超満員の客席で津村病院看護婦高石かつえ(田中絹代)の歌声(口パク)と美貌は子供心にも焼きついて昨日の事の様に鮮明に蘇ります。西條八十作詞万城目正作曲の三部曲 イントロからすべて覚えました。60年以上経った今でもところどころ歌えます。愛染かつらと聞くだけで盲腸の手術と戦死した叔父を思い出します。
上原謙(津村浩三)の様子の良かったこと。
旅の夜風~花も嵐も踏み越えて行くが男の生きる道・・・
愛染夜曲~加茂の河原の宵待草は月の光を見てひらく・・・
泪の子守唄?~可愛いお前があればこそ辛い浮世も何のその世間の口も何のその・・・
これ位は今でもスラスラ出て来ます。

80代男性(東京都)

 昭和二十年のころ、私の家に戦災で焼け出された五人家族が同居していました。
 私はまだ十一歳、お兄さんお姉さんは花の二十歳代の若者たちでした。田中絹代さん主演の「愛染かつら」を三回も観たよとか、歌や映画の話でいつもにぎやかでした。物は無くてもブロマイドを眺めては憧れた楽しい日々。また我が家には、田中絹代さんを囲んで写した一枚の集合写真があります。当時の住まいは東京蒲田でした。赤ちゃんの私が母に背負われて、豆のような顔をのぞかせています。よく祖母に連れられて撮影所で遊んだと聞かされました。長じて徳山で十八歳のとき通っていた職場の隣の表具店に、田中絹代さんの小父さんが用事で来られると、女優さんになりたいなと夢見たりしたものです。
 今だに田中絹代さんと重なる思い出が、脳裏に浮かび忘れられません。

70代女性(山口県)

私自身は田中絹代のリバイバルしか見たことはありませんが、父が大ファンです。来年の記念館ができるのをとても楽しみにしています。父が若い頃、私と自転車に乗って、映画館に見に行ったそうです。新婚当時、娯楽といえば映画くらいで、母と自転車を並べてこいで見に行っている姿が想像できます。田中絹代と自分達の青春が重なるようです。

50代女性(山口県下関市)

母は昭和元年、韓国、青松で生まれました。幼い頃、おじさんの手に引かれ日本へ渡ってきてから20歳(終戦年)まで大阪の銀橋付近で住んでいました。母が10代の頃は日本中が戦争に巻き込まれてみんなの生活が苦しんでいる時でした。母は大阪の軍需工場で働き、友たちとその当時、大ヒットの映画'愛染かつら'を見に行ったそうです。

 終戦後、母は韓国へ引き上げましたが、その映画がいつも目に浮かんだらしく主人公(田中絹代)のストーリーを私にたびたび聞かせてくれたり上機嫌の時は主題歌をよく口ずさんでいました。母は記憶力が驚くほどよかった人でした。また唄も上手でした。その映画を見てからおよそ70年経った去年、病床で'愛染かつら'の話と唄を私に聞かせました。病気で死を目前にした母の生命と記憶を少しでも取り戻そうと私がわざわざ'愛染かつら'のことを母に話しかけたからです。

 私は'愛染かつら'の話と唄を母から聞かれるたびに、さぞ感動的だったんだな!お母さんは...と思いました。そして私もぜひ一度見たかったんですが韓国で何十年前の日本映画を見るのはなかなか難しいことで諦めていました。

 その後、私は52歳、今年6月、下関のある大学へ一年の研修で来ました。日本に来てもその映画のことはすっかり忘れていました。しかし、母が楽しく話し、歌ってくれた'愛染かつら'とその主人公の田中絹代(写真)になんと偶然出会いました。ちなみに主人公の故郷が下関だと知って私は仰天しました。

  母は去年12月、83歳の年で惜しくも亡くなりました。私は母の追憶のその映画をあらためて母に見せてあげる事が出来ないのがとても残念です。私が来年、韓国へ帰ったら母の霊前で私が今度、出会った'愛染かつら'と田中絹代のことを母に話してあげたら母はさぞ嬉しがるでしょう。

50代男性(山口県下関市)

子供の頃、とっても無口な父親が『懐かしの...』なんてTV番組に彼女が出ると急に饒舌になり、当時いかに人気あり素晴らしい女優だったかを語り、当時自分は煩わしかった。今は別に暮らして居る事もあり、田中さん=父親の笑顔で、思わず微笑んでいる自分いる。

40代男性(秋田県)

田中絹代さんには 直接の思い出はないのですが、母親の名前が同じ絹代で、ある女優さんの名前からとった と聞かされていました。このキャンペーンの広告を見てその女優さんが田中絹代さんだったのかな? とふと思い、母の墓前に手を合わせに行こうかなと思いました。

20代女性(茨城県)

父が大ファンで愛染かつらを7回見た話はよく聞かされました。

50代女性(香川県)

今は亡き父が好きだった女優さん。女優と言えば田中絹代、と言うくらい頭に刷り込まれました。私が覚えているのは、もう中年以降だったけど、細くて小柄な身体のどこにあんなエネルギーが有るのかと思わされるほど迫真の演技をされていました。亡くなった時、インタビューに答えた方が、名女優の後を継ぐ子供がいなかったのが残念とおっしゃっていたのが印象に残っています。

50代女性(静岡県)

父と母、揃って映画好きで、リバイバル上映時に連れられ何本も観ましたが、観終わると父母が【誰が一番素敵だったか】と聞くのです...【田中絹代さん】と答えると、父はご機嫌アゲアゲになり、お菓子を買ってくれました。幼心に大人って単純だなぁ...と思いながらも親孝行した気分になった私でした。

40代女性(北海道)

「父さん、この映画、2度も観たんやて」――。もう46~47年前の昼下がり、おふくろがつぶやいた。「愛染かつら」・・・・・・白黒テレビの小さな画面では歌手の高石かつ枝が主題歌「旅の夜風」を歌っていた。
 戦前の大ヒット映画、すれ違いメロドラマ、田中絹代と上原謙・・・・・・昭和37年、私が高校2年、岡田茉莉子と吉田輝雄でリメークされたのでなんとなく知っていた。
 ビックリ、まさかである。けっこうガミガミ説教されて育てられた。町内会や役所、またソリの合わない人にはかなりガンコで意固地だったようで、おふくろをよく困らせていた。特に晩年は、近所とよくもめ事を起こし、おふくろは「世話になってるんじゃけぇ、あんなに言わんでものう」とこぼしていた。
 私は、昨年の「田中絹代映画祭」で初めて「愛染かつら」を観た。総集編だったが、途中でおふくろがポツリともらした言葉を思い出していた。
「そうか、あの頑固だった父にも田中絹代に心をときめかせた青春があったんだ」
 そんな父も11年前、ガンに倒れてわずか3ヶ月で逝ってしまった。88歳だった。
 何もしてやれなかった。もし、今、叶うなら、DVDで簡単に見れる時代である。「愛染かつら」を2度とは言わず、3度でも4度でも見せてやりたい。闘病の退屈さ・苦しさの何分の1かは楽にさせてやれたはずである。
 病床で薄汚れた病室の天井のシミをジーッと見つめていた姿が今も思い出されて、切ない。

60代男性(山口県下関市)
下関市文化振興財団
下関市近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館

下関市立近代先人顕彰館
田中絹代ぶんか館

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