皆様からお送りいただいた、田中絹代思い出のエピソードをご紹介いたします。
(個人が特定されるような固有名詞は削除させていただきました。)
私が未だ1歳の時、田中絹代と大勢の人と一緒に撮った写真がある。多分絹代の母堂が亡くなられて、納骨に下関に帰って来た時のものであろう。絹代は紋付の羽織を着ている。 私の養母は、東大坪町で独り暮らしていた。生活が苦しかった絹代の家族を助けて、絹代を特に可愛がったらしい。 律儀な絹代は、女優として成功してから、下関に帰ってくる度に「おばさんには恩があるから」と親しく養母を訪ねていた。 近所の人は、親類関係だと言っていたが、他人である。 養母は、絹代は墓参りに来られないからと言って、中学生の私も一緒に、絹代家の墓参をさせられていた。今は向洋町の公園になっているが、そこに市営の墓地があって、絹代家の墓は、我が家の墓より下の段にあって、立派な墓石であった。立ち退きにあって中央霊園と椋野墓地と別々になってしまったが、当時がとても懐かしい。
70代女性(山口県下関市) |
田中絹代さんの印象と出会い 昭和十二年五月の新譜として、レコード販売された、「すみだ川」の歌の間に、当時松竹の大スターだった田中絹代さんの台詞、「ああそうだったわねえ、あなたが二十あたしが一七の時よ・・・」が入っていた。 私は十二年三月鉄道教習所を卒業し、下関勤務となったとき、一七才であって、青春と重なり、今もこの台詞は忘れていない。 翌、十三年秋に封切られた、松竹映画「愛染かつら」の主人公を演じた、上原謙と田中絹代の名前を知らぬ者は、一人もいないといわれたほどでした。当時職場の先輩だったAさんが、子供の頃田中絹代さんと遊んでいたと、自慢げに話をされていた。 四十八年下関駅長のとき、田中絹代さんが突然駅長室に見えられ、「花、清く、美しく」の色紙をいただいた、その際、Aさんのことをお話したら「ああAちゃん、よくかくれんぼをしましたよ」と、懐かしそうにいわれた。田中絹代さんに思わずお会いできて、まさに駅長冥利に尽きる思いでした。
80代男性(山口県下関市) |
「田中絹代先生の一言」 僕が4才の頃、敗戦直後の下関の向山町に家族六人六畳一間の間借生活をして居ました。外で遊んでいた時、向こうから白いスーツを着た、光輝く大変美しい女の人が歩いて来て、僕の家に入りました。その人は田中絹代だったのです。遠い親戚関係にあったのです。僕は高校卒業後、映画俳優を夢見て上京し、町工場で働きながら、劇団に通ってました。遂に田中絹代先生に帝国ホテルのロビーで会える機会を得ました。自分の夢を思い切り、先生にぶつけました。じっと聞いて下さった先生は、緩と、確りとした口調で「何の仕事も一緒だけど、役者は唯憧れだけでは出来ないし、続かない、地道な努力、人一倍の努力その努力の度合でやっと食べられるか、どうかの世界ですよ!もう一度良く考えても良いのではないか」と、親の猛反対もあって、暗中模索の中で仕事を色々替えて、自分の仕事を見い出して、20年経た今67才にして、やっと絵描きの道を歩み始めました。
60代男性(山口県下関市) |