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 つぶや記 30 
 大阪と長州人

 田中絹代が松竹下加茂撮影所に子役として入社したのは大正13年、関東大震災の翌年です。絹代が大阪に出て幸運をつかんだように、大阪を第二の故郷として、大成功をおさめた有名な男性がいます。その筆頭は藤田伝三郎です。伝三郎は明治の風雲を追って大阪に行き、彼が目をつけたのが、まだ日本人には行き渡っていない革靴の製造でした。かつて和歌山藩が革靴づくりでドイツから招いたお雇い外人ハイチケンベルが失職していたのを雇い入れ、藤田製革所を立ち上げました。やがて幸運と出会います。大阪鎮台司令長官として赴任してきたのは、顔見知りの長州人、陸軍中将・鳥尾小弥太でした。
 折しも明治10年の西南戦争、当時の兵士はまだワラジばきだったので、これに革靴をはかせることになりました。革靴の注文を一手に引き受けた伝三郎の藤田組は、さらに多角的に事業の幅をひろげていきます。西南戦争で巨利を得たのは、海上運送の三菱、その次が大阪の藤田組、東京の大倉組でした。伝三郎はやがて大阪商法(工)会議所会頭となります。
 伝三郎は、兄の久原庄三郎を萩から呼び寄せます。庄三郎の子・つまり甥の房之助も父とともに大阪に行き、大学を出てから藤田組に入社、やがて独立し、日立鉱山や日立製作所を興しました。また房之助の義兄鮎川義介は、ニッサンの創始者です。大阪に出て行った一群の長州人が、明治から昭和にかけて華々しい軌跡をのこしています。
 ところで、わたくしは大阪での講演の前夜、主催者の好意で、にぎやかな街で食事をご馳走になったあと、北新地の「香川」という表構えの立派なうどん屋さんで、名代の「きつねうどん」をたべました。噂通りのみごとな味でした。そこでふと思い出したのです。藤原義江のお母さんが、北新地の琵琶芸者として働いていたことをーー。どこまでも下関と縁のある大阪やなあと思ったことでした。     (古川 薫)

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