つぶや記 29
田中絹代と大阪
旭陵同窓会(下関西高同窓会)関西支部に招かれ、田中絹代の話をしてまいりました。大阪弥生会館での総会には120人が出席、盛会でした。皆さん、大阪で大活躍しておられます。
わたくしは「田中絹代の光と影」と題し、主として絹代の私生活について
話しました。つまり大阪に移住し、女優になるまでの歩みと、その家族のことに焦点をあてました。
絹代にとって、大阪は運命的な出会いとなった場所でした。不思議な偶然のかさなりが、彼女を女優の道に引き込んでいきます。父親の死後、生活に窮した田中ヤスは絹代たち4人の子どもをつれて、追われるように下関を出ていきます。ヤスの実兄安太郎のいる大阪天王寺駅裏の裏長屋に、ころがりこんだのでした。
やがて絹代が楽天地の少女琵琶歌劇団に入り、一座のスターになったのは10歳のときで、一家の生活費は、少女の出演料でまかなわれたのです。この構図は絹代の生涯にわたって変わるものではありませんでした。家族全員が、絹代にしがみついて暮らし、病死したその人たちの遺骨を下関の墓地に葬り、最後に絹代じしんが同じ墓に入って、田中家はこの世での幕を閉じます。拙作『花も嵐も』は、華麗な女優生活の裏側にある影の部分で奮闘する絹代の人間ドラマを描いたつもりです。大坂ではそんな話をしました。
ところで絹代が大阪に移り住んだ4年後に、関東大震災があり、廃墟となった東京の映画会社が一斉に撮影所を京都に移しました。ちょうど絹代が「女優になりたい」という夢を抱きはじめたころです。映画のほうから絹代に近づいてきたのです。絹代は強運の人でした。悲運の生い立ちからはじまる絹代の人生は、未来を開拓していく絹代の強運と努力で、多彩な展開をとげていきました。この項次回につづきます。
(古川 薫)