名誉館長のつぶや記

名誉館長のつぶや記129 戦場写真家ベアトの再来

つぶや記 129
  戦場写真家ベアトの再来

   1945年(昭和20年)3月に入ってから、米軍機が関門海峡に飛来し、数次にわたって機雷5千個を投下しました。海峡は航行不能、船の墓場となって、海上における物資流通の大動脈は、完全に麻痺したのでした。
敵のねらいは海峡運河の封鎖であり、下関市街は襲撃対象にはなっていないのだろうと、市民が安堵したのは大間違いで、6月29日、7月2日は、焼夷弾攻撃により下関市街は壊滅状態となって324人の死者を出すという悪夢覚めやらぬうちに敗戦の玉音放送が、瓦礫の街に虚しくひびきわたったのです。
   空襲直後の廃墟と化した風景を写した何枚かの写真が、下関市史に掲載されています。下関には火の山の要塞司令部と重砲兵連隊があり、きびしい監視のもとで市民は暮らしていました。
   戦災の跡を一般人がカメラにおさめるなどとんでもないことで、憲兵にみつかったら、逮捕はもちろん場合によってはスパイ容疑で厳罰に処せられかねません。スパイ罪は最高死刑という時代です。よほどの覚悟なくして、カメラを提げ、空襲直後の街を飛び歩くなどできないことです。
   しかし下関市民の中に、いわば命がけの写真撮影を敢行した人がいたのです。当時竹崎町の写真機店々主・上垣内茂夫さんです。
   いや、商店主というより写真家としての独立した人格をそなえた上垣内さんがいたからこそ、焼け野が原となった下関の姿を市史に刻むことができたのです。実に貴重な戦争の証拠を遺してくれました。
   写真機という光学器械が登場してから、写真が史料として歴史に位置づけられるようになりました。日本史においては、幕末関門海峡での攘夷戦を撮ったイタリア人・ベアトの作品が遺されています。カメラを持って世界を放浪した彼が、日本史にあらわれる戦場カメラ・マン第1号です。
   攘夷戦から81年後、ふたたび戦場となった下関に、2人目のベアト、上垣内茂夫さんがいたということになります。この人の名も記録しておかなければなりません。        
                                                                        (古川 薫)