名誉館長のつぶや記
名誉館長のつぶや記60 失われた北国の春
つぶや記 60
失われた北国の春
この原稿を書いているころは、一生懸命に咲き香っていたわたくしの家の庭のソメイヨシノも葉桜に変身しています。樹齢約40年、すでに老木で、枝の何本かは枯れ、植木屋さんにたのんで年毎切り落としているので、太い幹だけとなって、かつての優雅な枝ぶりは姿を消してしましました。隣接した児童公園から、こっそり眺めさせてもらっていますという近所の人もおられましたが、均整がやぶれ、不恰好な老桜を、わざわざ見にくる人もいなくなりました。
いっそのこと伐ってやるのがよいのではないかと、思ったりもしたのですが、枯れた枝を補うように直径50センチばかりの幹から直接生えだした細い鉛筆ほどの新芽が、ちゃんと2、3輪の花をつけているのを見ると、伐採するのがためらわれ、こうなれば全体が朽ちて倒れるまで、大地にしがみつかせておこうと思うに至りました。来年も馬蹄形磁石の両端に砂鉄を吸いつかせたような桜の風景が見られることでしょう。
桜の季節になると、わたくしらの世代になると「万朶(ばんだ)」という満開の桜を表現する語句を思いうかべます。辞書を引くと「多くの垂れさがった枝」とあります。もはや死語に近いことばです。今ならさしあたり「爛漫」ですが、これだって使い古したものとはいえ、満開の桜にはピタリの表現でしょう。
『春琴抄・お琴と佐助』の田中絹代が、爛漫の桜を背景に近づいてくる華麗な場面を思い描きながら、ことし寿命が少し長かった桜の話をしているのですが、いやおうなく残酷な光景を想望するのも残念というほかはありません。東日本大震災では、何十万本、いや何百万本もの桜の木が、津波の激流に根こそぎやられる惨状を現出しました。東北はこれから桜前線が近づくはずでした。失われた北国の春のことにも思いを馳せながら、こちら南国の桜の季節は終わりました。まさに「四月は残酷な月」であります。 (古川 薫)