名誉館長のつぶや記

名誉館長のつぶや記56 ハレー彗星と田中絹代

つぶや記 56
  ハレー彗星と田中絹代

   「この世での呼吸をはじめて間もないころの自分の頭上を、巨大な流れ星が通過したことに、(絹代は)ふと運命的なものをかんじたのだった」
   拙著『花も嵐も-女優田中絹の生涯』冒頭あたりの一節です。ハレー彗星が地球に大接近したのは、明治43年(1910)5月19日でした。絹代ゼロ歳の夏です。衝突はおろか、この有毒ガスをふくむ全長3200万kmの尾を曳く彗星がすれ違っただけで、地上の生物は全滅するとあって、世界はパニックに陥りました。
「そんなことは絶対にあり得ない」とかたく信じ、彗星接近の報道飛び交う中で平然としていた人々もいたわけですが、天変地異にたいしては、いくら恐れても恐れすぎることはないことが、こんどの震災で証明されました。頑丈な岩盤の上に載せた原子力発電所が、自然災害で壊滅することは、ハレー彗星と地球の衝突があり得ないのと同様の安全神話として、わたくしたちは信じさせられてきたのです。
   チェルノブイリ原子力発電所(ウクライナ)4号炉での建屋破壊、炉心溶解事故以前、1973年にもスリーマイル島(アメリカ)原発で炉心溶解事故は起こっていたのです。対岸の火事だったのでしょう。
   わたくしは1986年の春、ロシアに旅して、キエフにも取材の足をはこぶ日程を組んでいましたが、直前の事故で果たせませんでした。なおも放射能が濃くただよう付近住民の恐怖に引きつった顔が忘れられません。当時ソ連各地の公園などにあった幾何学模様の巨大なオブジェは、あたかもヴォリンゲル博士のいう空間恐怖(『抽象と感情移入』)の象徴にも見えました。まもなくソヴィエト連邦は崩壊したのでした。
   公転周期76年のハレー彗星接触は絶対にあり得ないという信念と同様の安全神話に基づく「想定」の原発計画なら、このさい考えなおし、鉛の箱に封じ込めるのが勇断というものかもしれませんね。
                                                                          (古川 薫)