名誉館長のつぶや記
名誉館長のつぶや記132 吉田松陰と竹島
つぶや記 132
吉田松陰と竹島
竹島問題が過熱しています。隣県島根のことですが、わたくしたちにとって、歴史的関心事であるのは、吉田松陰がこれに関わっているからです。
かつて吉田松陰は、竹島開拓を国策として取り上げるべきだと熱心に主張しました。(この時代、「竹島」は現在の「鬱陵島」のことを指していました。)江戸時代、石見方面の漁民は竹島周辺海域の漁場に出かけていたのですが、幕府に隠れてほぼ密漁に近いかたちでした。
石見浜田の冒険的海商・会津屋八右衛門は、竹島の珍木を伐採して売りさばいたとして幕府にとがめられ、鎖国令を犯した罪で、死刑となりました。これが天保竹島事件です。
判決は天保7年(1836)12月に出ましたが、浜田藩の家老も連座しています。財政難に苦しむ浜田藩は八右衛門と組んで、竹島はおろかインドネシア、フィリピンまでも出かけて密貿易をしていたのです。
これを暴露したのは、探検家であり幕府の隠密でもあった間宮林蔵だったといわれています。ちなみに林蔵はシーボルト事件の密告者としても知られています。
浜田藩がらみの密輸事件に驚愕した幕府は、表むき竹島だけにしぼり、八右衛門を主犯とする竹島事件として処理、翌年には「異国渡海の儀は重き御制禁に候」と、あらためて厳重な鎖国を布令しました。(拙著『閉じられた海図』はこの事件をあつかった歴史小説です)
吉田松陰は、天保竹島事件の判決を不当として、桂小五郎(木戸孝允)や大村益次郎らに依頼し、竹島開拓を幕府に建言したのでした。
しかし「竹島は帰属がはっきりしない」という理由で、幕府は松陰たちの申し出を却下、竹島問題は立ち消えになりました。国際的な摩擦を嫌う傾向は、現代の日本政府の姿勢にもやや似ていますが、尖閣諸島をふくめ、国境問題が先鋭化した今となって、対決を避けられない現状を迎えています。地下の松陰先生はどう見ておられますか。
(古川 薫)