名誉館長のつぶや記

名誉館長のつぶや記242 座敷牢の読書

つぶや記 242
   座敷牢の読書

   むかしアフリカから鮮魚運搬船に便乗し、40日かけて帰国したとき、船内サロンの書架にあった図書およそ100冊を読破したことがあります。時代小説、探偵小説、娯楽作品はじめ手あたり次第読み尽くして、最後に残った岩波のトルストイ『人生論』を読みはじめたのは、台湾の陸影を見たころでした。
   読書の楽しみは人それぞれでしょうが、このように時間をかける苦行に似た読書は生涯、これが最初で最後だろうと思いながら船が東京湾の晴海埠頭に着くまでには何とか読了、単に達成感だけではない痺れるような喜びが全身を浸していました。これも読書の楽しみというものでしょう。
   吉田松陰は、萩の野山獄に捕らわれているとき、一年間におよそ五百冊の本を読んだといいます。毛筆の写本ですから、現代の読書量とは比べようがありませんが、とにかく大変な読書欲です。
   松陰は座敷牢も経験していますが、投獄を楽しんでいます。二度目の投獄では死刑の判決が下りましたが、安政大獄の狂風が吹き荒れているのも知らず、遠島ぐらいの刑で済むだろうと思い、「遠島また楽しからずや」と門下生にあてた手紙を遺しています。だれもが遠島だろうと予測していたのですが、最後に大老井伊直弼が罪一等を”加え”て死刑にしたのです。
   つまり死刑直前まで、松陰は流刑地での読書、執筆生活を楽しく思い描いていたのです。昭和の治安維持法で投獄され獄中での読書を楽しんだという詩人の報告もあります。
   ブリュッセル事件で投獄されたベルレーヌは、獄中で「空は窓の彼方にかくも静かに、かくも青し」と詠みました。自由へのあこがれをふくんでいますが、心を研ぎ澄まし、静謐な心境で獄中生活を送った松陰もそうでした。
   さて読書週間が10月27日から始まります。この日は奇しくも吉田松陰の命日です。多事多忙のいまどきですが、一日、座敷牢に入れられたつもりで読書の秋を満喫されてはいかがですか。
                                                                               (古川 薫)