名誉館長のつぶや記
名誉館長のつぶや記237 民族の祭典
つぶや記 237
民族の祭典
1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックのとき、わたくしは11歳でした。そのオリンピックを記念する映画『民族の祭典』『美の祭典』のうち、とくに記憶に残っているのは、『民族の祭典』です。この映画の監督がレニ・リーフェンシュタールという女性だったことを知っておどろいたのは、ずっとあとのことでした。
映画は冒頭で古代オリンピアを再現した重々しい場面だったのも印象深く、ヒトラーが登場する場面も、少年の私に特別の感想があるわけでもありませんでした。ただ全世界から集まった選手たちが躍動する群像のすばらしさ、とくに日本人選手がメダルを獲得した場面を、無邪気に熱狂したあの日の興奮が忘れられません。
あれから80年経った今も、4年毎のオリンピック競技開催の素朴な意味は失われていないでしょう。しかしその内容は現代に至って、かなり薄汚れたものになりました。国家組織ぐるみドーピングの不正をしてまでメダルを欲しがるヤカラがいたのでは、クーベルタンの「参加することに意義がある」という名言までが薄汚れてしまいます。
ここで1936年のベルリン・オリンピックのことで思い当たるのは、ナチスがプロパガンダとしてオリンピックを利用した事実です。このとき始まった「聖火リレー」も、ナチスの理論武装「地政学」による侵略地図だったということを、戦後になって気付くわたくしの無知さ加減にも腹が立ちます。
『民族の祭典』を、傑作のスポーツ芸術映画として今もテレビなどで再上映することはよいとして、これもリーフェンシュタールがヒトラーの要請に従ったナチスのプロパガンダ映画だったことを承知しておく必要はあるでしょう。
わたくしたちは安易に『民族の祭典』と呼んでいますが、ナチスが「民族」を言う場合は、おぞましい「民族浄化」という不吉な言葉となります。
あまりにも国別の勝敗にこだわるから、オリンピックを堕落させることになるのです。このたびのドーピング事件を機に徹底的に「五輪浄化」してもらいたいものですが、それにしても「リオ」は大変な五輪になりそうですね。御安全を祈り上げます。
(古川 薫)