当館紹介
大正時代の名残を
留める歴史ある建物。
田中絹代ぶんか館は、大正十三年に
「旧逓信省下関電信局電話課庁舎」として竣工されました。
ヨーロッパの新建築運動に影響を受けた若手建築家たちによる「分離派建築会」の建築要素を持つ、特徴的な建物です。
※赤枠の特殊部分をクリックすると、詳細をご覧いただけます。
外観の特徴
この建物の特徴は、高さを強調する直線と塔屋や窓に見られる曲線による、シンプルかつモダンなデザインにあります。
大正末期から昭和初期にかけて全国に建てられた電話局舎は、ほとんどが同様の特徴をもっていましたが、今ではこの建物が、現存する唯一の建物となっています。
電話交換手から始まる
女性の社会進出の歴史。
2階執務室には、柱の上部や窓際に、曲線と段を効果的に用いた装飾が見えます。当時は女性が社会進出を始めたばかりで、電話局に勤める女性電話交換手は花形の職業婦人でした。
局舎の3階はオルガンや読書台が置かれた休憩室で、今はない北側の建物には、裁縫などを習う訓育室、蓄音機の置かれた畳敷きの休憩室などもあり、女性の教育と福利厚生に十分な施設を備えていました。
建物の年表
- 大正11年(1922)
- 逓信省営繕課による設計、工事着工。
- 大正13年(1924)
- 逓信省下関電信局電話課庁舎として竣工。
中国地方で初めて「共電式」の電話交換を導入。
- 大正14年(1925)
- 9月、北側の木造部分が焼失。本館部分には延焼せず。
- 昭和2年頃(1927頃)
- 木造部分焼失の跡地に木造による北棟が完成。
- 昭和20年(1945)
- 6月、下関空襲。
これにより唐戸一帯が焼失するが、本館は被害を免れた。
- 昭和26年(1951)
- 共電式から自動式への移行が進み、昭和27年(1952)に設立された。
日本電信電話公社(現NTTグループの前身)に事業が移管される。
- 昭和41年(1966)
- 下関に自動式の局舎が新たに建設されたことにより、役割を終える。
- 昭和44年(1969)
- 下関市の所有となる。
福祉課や教育委員会などが入り、本庁舎の「第一別館」として20年あまり使用された。
しかし平成2年、老朽化のため解体方針を決定。公用駐車場として整備される予定となっていたが、
平成11年に市民の保存運動を受けて方針を撤回、一転して保存活用方針が打ち出される。
- 平成14年(2002)
- 2月15日、下関市指定有形文化財(建造物)へ。
- 平成20年(2008)
- 2年間、保存修理工事及び活用整備工事。
- 平成22年(2010)
- 2月13日、下関市立近代先人顕彰館(愛称:田中絹代ぶんか館)として開館。
下関市指定有形文化財の建物を「近代」「通信」「女性」「市民」をキーワードに、次のコンセプトを定めている。
・女優 田中絹代の顕彰を核としながら、下関市とゆかりの深い近代以降の芸能及び文学関係の先人を顕彰し、常設・企画展を開催することで、
その活動や心を伝えていく、博物館的機能を有する施設。
・文化活動団体の発表、交流の場として広く活用できる文化施設。
- 平成26年(2014)
- 建物竣工より90年を迎える。
- 平成29年(2017)
- 4月28日、日本遺産「関門‟ノスタルジック“海峡」構成文化財として認定される。
- 令和1年(2019)
- 建物竣工より95年。
- 令和2年(2020)
- 2月13日、下関市立近代先人顕彰館として開館10年目を迎える。
- 令和6年(2024)
- 建物竣工より100年
名誉館長
ふるかわ かおる古川 薫
大正14年(1925)6月5日-平成30年(2018)5月5日 下関市大坪町生まれ
山口大学教育学部卒業後、中学校教諭、山口新聞編集局長、企画室長を経て文筆生活に入る。平成3年(1991)藤原義江を描いた『漂泊者のアリア』で第104回直木賞を受賞。
著書は『暗殺の森』『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』『斜陽に立つ』など多数。郷土の歴史に根ざした文学作品を多く執筆し、郷土文化の顕彰にも多く貢献した。
平成31年(2019)3月26日、長年下関の文化振興の旗手として活動してきた功績を認められ、下関市名誉市民の称号が贈られた。
古川薫のつぶや記
館内紹介
3Fフリースペース
休憩室
勉強や読書などに最適な空間です。
当館内を見た後は、こちらでゆっくりと休憩なさってください。
どなたでもご自由にご利用できます。