名誉館長のつぶや記
名誉館長のつぶや記171 維新バスに乗り遅れた福岡
つぶや記 171
維新バスに乗り遅れた福岡
ことしのNHK大河ドラマは、黒田官兵衛です。のち剃髪して名乗った「如水」のほうがよく知られており、福岡市に行くと、この名をつけた施設を見かけます。ご自慢の郷土の偉人です。
黒田孝高(よしたか)通称官兵衛は、近江源氏・佐々木氏の庶流ですが、応仁の乱のころから零落して、備前・播磨のあたりに住み、目薬商を生業としていたといいます。
官兵衛の祖父のとき才覚を認められ西播磨の豪族小寺氏の重臣となって頭角をあらわし、官兵衛の父の代には姫路の城代となるほどに立身しました。
天下分け目の関ヶ原の合戦が近づいたころ、大名たちは豊臣の西軍につくか、徳川の東軍につくか去就に迷いました。秀吉から豊前6郡を与えられて黒田姓を名乗り九州北部で勢いを張っていた官兵衛(如水)は、子の長政を東軍に走らせ、自身は態度を明らかにしないで、東西対決の結果を見守っていました。
次第によっては、豊臣でも徳川でもない黒田が天下を取ってやろうではないかと、漁夫の利を狙っていたのです。つまりいずれかが勝ち、疲れたところを打ちとるという壮大な計画でした。
しかし関ヶ原の対決はあっけなく1日で終わって、家康の天下取りは動かしがたく、大器の出番はなくなりました。「もう100日あったら・・・」と官兵衛は残念がったそうです。
黒田氏は長政の働きにより、外様ながら福岡52万石の大大名に安堵され、安定した江戸時代をすごすことになります。ところで関ヶ原のときの長政の働きとは、毛利軍が決戦に参加しないように徳川と密約を交わす裏工作の仲介を果たしたことです。
この毛利の裏切りがなかったら歴史は逆転していただろうという負の大役をつとめた外様大名黒田氏の福岡藩は、後年の幕末、中立を守りつづけました。ために維新のバスに乗り遅れたとされますが、変革のときのサバイバルは、官兵衛親子いらいの伝統的手法だったのかもしれません。
(古川 薫)