名誉館長のつぶや記
名誉館長のつぶや記126 オリンポスの果実
つぶや記 126
オリンポスの果実
むかしは選ばれたわずかな人々が参加したので、オリンピック選手といえば、神様あつかいされたものでした。それだけに期待も大きく、日の丸を背負った責任は重大でした。
いつもオリンピックの季節になって思い出すのは、田中英光(正確にはヒデミツですが、通称エイコウでした)が書いた『オリンポスの果実』という中篇小説です。まだ選手が飛行機で移動せず、ヨーロッパのオリンピック会場には1ヶ月以上近く船に乗ってでかけたころの話です。あるオリンピック選手が、長い船旅の途中、重圧に耐えかねて、インド洋に投身自殺した実話を小説化したこの作品は青春小説の名品として知られています。なんという痛ましく、残酷な、そして純粋で美しい青春であるかと、戦前のわたくしたちは感動したのですが、今の若い人は白けるのでしょうか。
スポーツを観るのは楽しいのですが、それをこのごろは、やる選手の側から、「楽しむ」といいます。これから最終の決戦というとき、蒼白な表情で「楽しみます」などと言います。わたくしなどは強がりとしか思えませんが、まあそんな気配をただよわせながらも、遊びに徹する若者の哲学はあるのかもしれません。だからオリンピック会場にむかう長い船の旅にキレて自殺するなど「あり得ない」というわけでしょう。
ちなみに『オリンポスの果実』を書いた田中英光は、昭和7年のロサンゼルス五輪の日本代表のボート選手でした。心理描写が光っていたのはそのせいです。しかし太宰治の弟子だったエイコウは、17年後の昭和24年、太宰の墓の前で、殉死めいた自殺で世を去りました。太宰も田中も「傷つきやすい無頼派作家」といわれましたが、そんな作家もいなくなりました。
どんなに日の丸の重圧があろうと、彼(彼女)は決戦を楽しむのでしょう。どうぞ楽しみながら、日の丸を挙げてください。がんばれ「なでしこ」「サムライ」軍団!
(古川 薫)