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田中絹代 思い出のエピソード

 たくさんの方から"田中絹代 思い出のエピソード"をお送りいただきました。
ありがとうございました。

思い出エピソードの一部をご紹介いたします。
(個人が特定されるような固有名詞は削除させていただきました。)

田中絹代 思い出のエピソード
エピソードⅠ ~心に残る名場面~
エピソードⅡ ~素顔の絹代さん~
エピソードⅢ ~絹代さんに重なる家族との思い出~
エピソードⅣ ~今も生き続ける偉大な女優~
エピソードⅤ ~私と絹代さん~

田中絹代 思い出のエピソード

皆様からお送りいただいた、田中絹代思い出のエピソードをご紹介いたします。
(個人が特定されるような固有名詞は削除させていただきました。)

エピソードⅤ ~私と絹代さん~

私が21頃愛染かつらの映画があって、上原健と田中絹代で大変な人気者だった。前編、後編、完結編まで、朝から晩まで見て帰った時、親から叱られた事を想い出します。それ程、田中絹代さんに熱中していました。娘時は、下関の大坪にいて、田中さんの近くでお友達に教えて貰った事があり大変嬉しかった。可愛い方で、おしくてたまりません。

80代女性(山口県下関市)

戦後初めてアメリカへの旅行から帰国して機上からのアメリカナイズされた容姿、態度が随分話題となった。
また戦前の映画「愛染かつら」は私が軍隊に入る前に見た最後の映画でした。

80代男性(山口県下関市)

昭和30年代後半(か40年代初め)、上新地で上臈道中されている田中絹代さんを目の前でみました。小柄でおかっぱで親しみやすく感じました。田中絹代さんというと、いつもその時のことを思い出します。

70代女性(山口県下関市)

50年前、映画館で田中絹代、上原謙共演の「愛染かつら」前後編を初めてみましたが、その際、友人から「田中絹代は下関の出身だよ」と初めて教えられました。
以来、彼女出演の映画を続けてみていました。これを機会に映画ファンとなっていました。
私にとって貴重な思い出でした。

70代男性(山口県)

私の名前は「絹代」といいます。
才色兼備の田中絹代様のような素敵な女性になってほしいと、父が名づけたそうです。
田中さんについては、母から昔「女性で初の映画監督」と聞いた以外は知らないので、生誕100周年のこの機に是非、田中さんの事を知ってみたいと思っております。

50代女性(山口県下関市)

「戦後高校生と愛染かつら」
 初めて田中絹代の映画を見たのは、映画が唯一の楽しみだった戦後、北海道小樽の松竹座で「愛染かつら」が上映されていた。
 高校生だった僕には、その内容をどれほど理解できたか覚束ないが、若い心になんとも云えない甘い切ない想いが残った。
 百年に一人と云われた美男子上原謙と、見るも愛らしい田中絹代の逢瀬のシーン。「花も嵐も踏み越えて・・・」と唄う白衣の天使、田中絹代の姿は、今も脳裏に鮮明に遺っている。
 当時は遠い雲の上のような人だった田中絹代が、この地の出身だったことを知り、彼女について色々と見聞きできることが夢のようでありがたく、これから過す老後が楽しみで感謝している。田中絹代ありがとう。バンザイ、百周年に栄光あれ!

70代男性(山口県下関市)

渡米し、帰国の羽田で飛行機のタラップで確か、投げキッスをした場面が、幼少の私の脳裏にとても強いインパクトで、今も昨日の出来事の様に想い出されます。

60代女性(埼玉県)

 彼女は大女優として今もなお語り継がれる方です。多くの素晴らしい映画に出演なされ、その美しい姿や優美な演技に、どの作品を観ても私は感動させられっぱなしです。
 しかも彼女は女優だけでなく、映画監督として6本の作品を残しています。「女ばかりの夜」という映画を観たとき、彼女が女優としてだけでなく、この時代には大変めずらしい女流映画監督であるという事実を知り、私は大変感動しました。当時にしてみれば、女と言うだけで監督としての風当たりは相当強いものだったとおもいますが、それにも負けずご自分の意思と感覚、そして才能を信じて映画を撮られた事に心から感銘を受けます。
 私は外国人ですが、日本の古き良き時代の映画は、本当に大好きです。古い洋画も良いですが、それにはない深い心の中の郷愁、慎み深さ、寂しさや憂いが切実と伝わってきます。

30代男性(東京都)

一番強烈に印象に残ってるのが、日本テレビの「前略おふくろ」。ドラマ放送期間中は、知る由もなかったんですが、亡くなった際に、実は病で殆ど目が見えなかったのにも関わらず、このドラマのナレーションを、いくつものメガネや虫メガネを使って、やってのけたというエピソードに・・・。そんなこと微塵も感じさせなかった堂々のナレーションぷりに、プロ根性に・・・。いまでも体調がすぐれない時には、このことを思い出して、「がんばらねば!」と、カラダにムチ打ってしまいます。

40代男性(岡山県)

 私と田中絹代との出会いは新藤兼人監督が書いた「小説田中絹代」でした。
 それまで戦前戦後のトップスターという位の知識しかなくてどういう人だったのかなあと軽い興味本位で読みました。
 その本には清純派女優田中絹代の華麗なる男性遍歴などかなりセンセーショナルな部分も書いてありましたが、なかなか魅力あるものでした。
 愛人の溝口健二監督の映像美の中の絹代もとても美しいですが、私は「サンダカン8番娼館・望郷」の絹代がとても好きです。その映画の絹代はひょっとしたら美しいとはいえないかも知れませんが・・・いえいえ、絹代のこれまでの人生がすべて体当たりで現れていてとても美しいです。
 大阪の愛染堂には、映画「愛染かつら」の縁結びの霊木があります。桂にノウゼンカズラのつるが巻きついていて夏にはオレンジ色のきれいな花を咲かせます。絹代は「愛染かつら」の映画の話があったとき、最初は子持ちの役だったのでがっかりしたと本に書いてありましたが、この映画はとてもいい映画でヒットもしました。この霊木「愛染かつら」にお願いすると良縁が叶うといわれています。アラフォーでいまだ独身の私もこの霊木に参ってお参りを求めました。ご利益があることを期待しています(笑)

40代女性(奈良県)

 忘れじの微笑み
 田中絹代が銀幕の女王だった頃、私はホヤホヤの女学生でした。当時女学校の生徒に映画館はお出入り禁止の場所で、万が一見付かると県教護連盟の懲罰委員会にかけられ何と退学も有りとの恐い噂がありました。憧れと懲罰、そのジレンマに心を傷めた末、私は県外脱出と言う手段に討って出る事を思い付いたのです。幸い、福岡は母の里でした。そこには祖母をはじめ伯父、叔母、従姉妹、再従兄弟も居ます。夏冬の休みに泊りがけで遊びに行きよく映画館に連れてってもらいました。幾許かの罪悪感を制服のポケットにそっと押し込み、身を乗り出して見つめた映画の味は禁断の木の実に増して甘く切なく、思春期の私のハートには良きサプリメントだった気がします。「お夏清十郎」「愛染かつら」等等に見た楚々として愛らしい田中絹代の微笑みは懐かしい思い出として折にふれ、今も私の心を温めてくれています。

80代女性(山口県下関市)

 私は介護の仕事をしています。レクレーションで映画鑑賞が有り田中絹代さんが出演されていました。凄く綺麗で演技も上手で老人の方にこの人は誰ですか?と尋ねて初めて田中絹代さんだと知り私もファンになりました。

30代女性(滋賀県)

 学生時代、ファッションデザイン課を専攻していた時田中絹代さんをイメージした着物デザインを考えなさい。と言われビデオを見まくり徹夜をして、みごと一位を受賞したことがありました。日本人の女性像を見事に体現している田中絹代さん。本当に美しい女性でした。

30代女性(東京都)

 ≪花も嵐も踏み越えて~♪≫の【愛染かつら】と同じく看護師をしています。かつて勤務の場所での若い同僚の名前が【かつえ】まさしく 映画から名前を頂いた彼女は 看護師になってました。

50代女性(神奈川県)

 何年前だったでしょうか。
 先帝祭で竹筒の花を持ち、そそと歩く小柄な品があり、一般の人とは違うなにかがありました。
 私が生で見た田中絹代さんでした。今でもその光景が目に浮かびます。

60代女性(山口県下関市)

田中絹代 思い出のエピソード

皆様からお送りいただいた、田中絹代思い出のエピソードをご紹介いたします。
(個人が特定されるような固有名詞は削除させていただきました。)

エピソードⅣ ~今も生き続ける偉大な女優~

下関を誇る大女優ですよね。一度ですがお墓にお参りに行きました。人の多さに、偉大さを感じました。

50代女性(山口県下関市)

「あっという間にスターになり、いつの間にか消えてゆく現代のスター。少女時代から晩年まで、第一線のスター、主演女優として君臨し続けた真の女優と思う。日本を代表する銀幕のスターとして永遠にその名を残すだろう。伊豆の踊り子はいろいろな女優が演じているが皆タレントばかりである。本格的な映画は彼女の作品に尽きる」

60代男性(宮城県)

 私の実家は鎌倉山にあり、田中絹代さんが昔住んでいたお宅とは、徒歩数分の距離でした。田中さんのお宅だった場所は、雑草が生え、殺伐とした状態でしたが、それでも噂を聞きつけたかつてのファンが、鎌倉観光方々訪れていました。今は見ても面影すらない場所を、『ここが絹代さんが住んでいた場所か。この道路も歩いていたんだろうな。この景色を見て散歩してたのかな』と感慨深い様子で語る人々を見て、偉大な女優さんだったんだなと思っていた事を、懐かしく思い出します。

30代女性(東京都)

 実際見たことはないのですが、私は山口出身なので名前は知ってました。亡くなった祖母が『綺麗な人だった』と言ってました。亡くなられても、なお名前が語られている女優さんって、そうはいらっしゃりませんので、凄いなと思います。

30代女性(東京都)

田中絹代 思い出のエピソード

皆様からお送りいただいた、田中絹代思い出のエピソードをご紹介いたします。
(個人が特定されるような固有名詞は削除させていただきました。)

エピソードⅢ ~絹代さんに重なる家族との思い出~~

 私の母は今82歳です。私は田中絹代さんの映画やテレビをほとんど知りませんでした。でも母は昔から大ファンで良く映画を見に行っていたそうです。母は田舎の本家の嫁として大変苦労をしていたそうです。それでも映画を見ると辛さも大変さも忘れてしまったそうです。それほど田中絹代さんの映画に感動していたのだと思います。母にとっては人生のオアシスのようなものだったのだと思います。

40代女性(愛知県)

 名作「愛染かつら」が上映されたころ、私は小学二年生でした。
私は当時北九州市若松区の本町という繁華街で生活し、学校への道筋に四五軒の映画館がありました。その一軒が「松竹キネマ映画館」で、ある日館の前に掲げられた上原謙と田中絹代の絵看板を見て、プロマイドを並べたウインドウを覗ききますと、子供心にも悲恋のストーリーが判るのです。急いで帰宅して三人の姉に粗筋を解説すると、この「おませが、見てきたように話すと叱られました。」

  そんなことがあった後、昭和16年の夏でしたが、当時見習士官になったばかりの兄が、門司港から輸送船で大陸に渡るのを、母と見送ったことがあります。真夏に正規の軍装に身を固めた兄の頬を伝う汗を、黙って拭う母の姿は、後に上演された「陸軍」の出征兵士を送る母親のシーンと重なり、胸を打たれたものです。太平洋戦争前夜の緊迫した頃の話です。

  当時清順派は田中絹代、理性派は三宅邦子、妖艶派が木暮美千代と覚えていますが、戦争が終わり彼女が日米親善使節の役を終えて帰朝した時、サングラスに投げキッスのポーズに驚かされました。然し女優としての演技、女性映画監督になった後の映画も、小柄な体から絞り出すような演技に感嘆しました。
一生懸命な姿は清順派を超える「女性の底力」であり、今回一番に顕彰される事を、心からお喜び申し上げます。

70代男性(山口県下関市)

 私は大阪出身です。父は25年前に他界しましたが、日頃「田中絹代さん」が大好きで大阪弁で「ええ女やなあ~」(笑)が口ぐせでした。私自身は「サンダカン8番娼館」で始めて映画を見て、この人なのか・・・と思ったものです。それが3年前に主人の故郷である下関に戻り、田中絹代さんが下関出身であることを知りました。いつかお墓参りに行ってみようと思っています。今年は色々なイベントがあるのですね。父を思い出しながら、イベントにも行きたいです。

50代女性(山口県下関市)

母が生前「私の若い頃は田中絹代にそっくりだった」といつも言っていました。田中絹代さんの名前を見ると亡き母を思い出します。

50代女性(山口県下関市)

田中さんの清楚な美しさを実家の母親が自分の自慢にしていて"愛染かつら"の主演をされた時のことや主題歌を子守歌がわりにいつも耳元で口ずさんでいたので、いつの間にか私も歌える様になりました。確かに若い頃の田中絹代さんによく似ていて、着物が好きな事も相似ていて、母が田中絹代さんのようになりたかったのかなと思いました。今、十月一日で八十七歳を迎える母と一緒に菊川アブニールにフィルムで逢いに行き、昔を懐かしく思い出してもらおうと思っています。

50代女性(山口県下関市)

97歳で要介護5の母は10代の終わりから91歳まで生け花を教えていた。
母が師事する先生のお教室から2名選ばれて、大船の撮影所に行き田中絹代の「花」という映画に出演したが母の自慢でもあった。 相手役が上原謙で、田中絹代が彼に近づいて「司様」というせりふを言うだけの場面で、監督から何度も「もと~い」とやり直しさせられていたと繰り返し語っていた。「あんな短いせりふなのに、何度も注意されて、女優さんは大変だねと思ったよ」というのが母の回顧談の締めくくりであった。 母を喜ばせようと私は「花」という映画のビデオを見つけ出した。吉屋信子原作の映画で田中絹代はいけばな教師の役だった。 どこに母は出てくるのだろうと、目を皿にして画面を見続けていると、絹代が主宰する教室がいけばな展示会を開催している会場場面になった。 そこへ上原謙が現れ、絹代が「司様」と近寄っていった。母の記憶は正しかったのだ。 展示会には沢山の若い女性がいるのだが、残念なことに母の姿は無かった。映画の冒頭に出演者と共に協力者としての小原流、草月流、池坊などの名があった。 各流派の有力な先生方のエキストラとして選出されたのであろう。
母は今、認知症で食べた瞬間にそのことを忘れてしまう状況であるが、田中絹代の映画に出たことは決して忘れない。
「お母さんはきれいだったから選ばれたのね」と言うと「きれいじゃなかったわよ」と答え、嬉しそうな表情をするのも私の子供の頃と同じである。

60代女性(東京都)

今は亡き父が田中さんの大ファンでした。
あまりに絹代、絹代とうるさいものだから、よく母とけんかしてました。
もちろん、母は田中さんが大きらいになりました。

50代男性(栃木県)

姉は戦前からの熱狂的田中絹代ファンだった。幼かった僕は姉に連れられ意味も分からないまま(愛染かつら)を何度も見せられた。上原謙が待っている新橋駅に絹代がタクシーでかけつけるシーンになると、姉は僕の手を力いっぱい握りしめ体を硬くしていた。
戦後も絹代の映画だけは見続けていたようで、たずねると待っていたように一方的に話しまくった。
愛染かつらは別格として彼女の絹代映画のベストスリーは不動だった。(彼岸花)(楢山節考)(おとうと)お気にいりの作品だった。
姉も絹代もいないのが一寸さびしい。姉がいつも話していた言葉を忘れていない。
「田中絹代って独特のナマリがあるのよ。誰も真似できないわ」

70代男性(東京都)

昔、田中絹代さんが、老け役に徹するため歯を抜いたことがあった。
それをマスコミが、役者魂に気圧されたと報じた。
それを知った、私のばあさんがちょうどその頃一挙に歯が四本抜け足を骨折した。
「あれで主演なら、私しゃ主演、兼監督じゃがね」と言って家族皆んなに笑われた。

60代男性(山口県)

 昭和14年頃(1939年)だったと思います。
 その冬今は殆ど降りませんがあの頃は毎年2m位の積雪があり屋根から卸した雪の山で遊んでた処急な腹痛。大型の手押し橇にのせられ市内の外科病院へ。たまたま遊びに来ていた陸軍仕長の叔父に送られ入院早速手術。破裂寸前との事で助かりましたが手術室の暖房が利かず肺炎を起こし2ヶ月入院の余儀なくされました。病院の前の食堂から毎日愛染かつらの曲が流れ病室の小生にとって大いに慰めとなりました。
其の後映画を見る機会があり超満員の客席で津村病院看護婦高石かつえ(田中絹代)の歌声(口パク)と美貌は子供心にも焼きついて昨日の事の様に鮮明に蘇ります。西條八十作詞万城目正作曲の三部曲 イントロからすべて覚えました。60年以上経った今でもところどころ歌えます。愛染かつらと聞くだけで盲腸の手術と戦死した叔父を思い出します。
上原謙(津村浩三)の様子の良かったこと。
旅の夜風~花も嵐も踏み越えて行くが男の生きる道・・・
愛染夜曲~加茂の河原の宵待草は月の光を見てひらく・・・
泪の子守唄?~可愛いお前があればこそ辛い浮世も何のその世間の口も何のその・・・
これ位は今でもスラスラ出て来ます。

80代男性(東京都)

 昭和二十年のころ、私の家に戦災で焼け出された五人家族が同居していました。
 私はまだ十一歳、お兄さんお姉さんは花の二十歳代の若者たちでした。田中絹代さん主演の「愛染かつら」を三回も観たよとか、歌や映画の話でいつもにぎやかでした。物は無くてもブロマイドを眺めては憧れた楽しい日々。また我が家には、田中絹代さんを囲んで写した一枚の集合写真があります。当時の住まいは東京蒲田でした。赤ちゃんの私が母に背負われて、豆のような顔をのぞかせています。よく祖母に連れられて撮影所で遊んだと聞かされました。長じて徳山で十八歳のとき通っていた職場の隣の表具店に、田中絹代さんの小父さんが用事で来られると、女優さんになりたいなと夢見たりしたものです。
 今だに田中絹代さんと重なる思い出が、脳裏に浮かび忘れられません。

70代女性(山口県)

私自身は田中絹代のリバイバルしか見たことはありませんが、父が大ファンです。来年の記念館ができるのをとても楽しみにしています。父が若い頃、私と自転車に乗って、映画館に見に行ったそうです。新婚当時、娯楽といえば映画くらいで、母と自転車を並べてこいで見に行っている姿が想像できます。田中絹代と自分達の青春が重なるようです。

50代女性(山口県下関市)

母は昭和元年、韓国、青松で生まれました。幼い頃、おじさんの手に引かれ日本へ渡ってきてから20歳(終戦年)まで大阪の銀橋付近で住んでいました。母が10代の頃は日本中が戦争に巻き込まれてみんなの生活が苦しんでいる時でした。母は大阪の軍需工場で働き、友たちとその当時、大ヒットの映画'愛染かつら'を見に行ったそうです。

 終戦後、母は韓国へ引き上げましたが、その映画がいつも目に浮かんだらしく主人公(田中絹代)のストーリーを私にたびたび聞かせてくれたり上機嫌の時は主題歌をよく口ずさんでいました。母は記憶力が驚くほどよかった人でした。また唄も上手でした。その映画を見てからおよそ70年経った去年、病床で'愛染かつら'の話と唄を私に聞かせました。病気で死を目前にした母の生命と記憶を少しでも取り戻そうと私がわざわざ'愛染かつら'のことを母に話しかけたからです。

 私は'愛染かつら'の話と唄を母から聞かれるたびに、さぞ感動的だったんだな!お母さんは...と思いました。そして私もぜひ一度見たかったんですが韓国で何十年前の日本映画を見るのはなかなか難しいことで諦めていました。

 その後、私は52歳、今年6月、下関のある大学へ一年の研修で来ました。日本に来てもその映画のことはすっかり忘れていました。しかし、母が楽しく話し、歌ってくれた'愛染かつら'とその主人公の田中絹代(写真)になんと偶然出会いました。ちなみに主人公の故郷が下関だと知って私は仰天しました。

  母は去年12月、83歳の年で惜しくも亡くなりました。私は母の追憶のその映画をあらためて母に見せてあげる事が出来ないのがとても残念です。私が来年、韓国へ帰ったら母の霊前で私が今度、出会った'愛染かつら'と田中絹代のことを母に話してあげたら母はさぞ嬉しがるでしょう。

50代男性(山口県下関市)

子供の頃、とっても無口な父親が『懐かしの...』なんてTV番組に彼女が出ると急に饒舌になり、当時いかに人気あり素晴らしい女優だったかを語り、当時自分は煩わしかった。今は別に暮らして居る事もあり、田中さん=父親の笑顔で、思わず微笑んでいる自分いる。

40代男性(秋田県)

田中絹代さんには 直接の思い出はないのですが、母親の名前が同じ絹代で、ある女優さんの名前からとった と聞かされていました。このキャンペーンの広告を見てその女優さんが田中絹代さんだったのかな? とふと思い、母の墓前に手を合わせに行こうかなと思いました。

20代女性(茨城県)

父が大ファンで愛染かつらを7回見た話はよく聞かされました。

50代女性(香川県)

今は亡き父が好きだった女優さん。女優と言えば田中絹代、と言うくらい頭に刷り込まれました。私が覚えているのは、もう中年以降だったけど、細くて小柄な身体のどこにあんなエネルギーが有るのかと思わされるほど迫真の演技をされていました。亡くなった時、インタビューに答えた方が、名女優の後を継ぐ子供がいなかったのが残念とおっしゃっていたのが印象に残っています。

50代女性(静岡県)

父と母、揃って映画好きで、リバイバル上映時に連れられ何本も観ましたが、観終わると父母が【誰が一番素敵だったか】と聞くのです...【田中絹代さん】と答えると、父はご機嫌アゲアゲになり、お菓子を買ってくれました。幼心に大人って単純だなぁ...と思いながらも親孝行した気分になった私でした。

40代女性(北海道)

「父さん、この映画、2度も観たんやて」――。もう46~47年前の昼下がり、おふくろがつぶやいた。「愛染かつら」・・・・・・白黒テレビの小さな画面では歌手の高石かつ枝が主題歌「旅の夜風」を歌っていた。
 戦前の大ヒット映画、すれ違いメロドラマ、田中絹代と上原謙・・・・・・昭和37年、私が高校2年、岡田茉莉子と吉田輝雄でリメークされたのでなんとなく知っていた。
 ビックリ、まさかである。けっこうガミガミ説教されて育てられた。町内会や役所、またソリの合わない人にはかなりガンコで意固地だったようで、おふくろをよく困らせていた。特に晩年は、近所とよくもめ事を起こし、おふくろは「世話になってるんじゃけぇ、あんなに言わんでものう」とこぼしていた。
 私は、昨年の「田中絹代映画祭」で初めて「愛染かつら」を観た。総集編だったが、途中でおふくろがポツリともらした言葉を思い出していた。
「そうか、あの頑固だった父にも田中絹代に心をときめかせた青春があったんだ」
 そんな父も11年前、ガンに倒れてわずか3ヶ月で逝ってしまった。88歳だった。
 何もしてやれなかった。もし、今、叶うなら、DVDで簡単に見れる時代である。「愛染かつら」を2度とは言わず、3度でも4度でも見せてやりたい。闘病の退屈さ・苦しさの何分の1かは楽にさせてやれたはずである。
 病床で薄汚れた病室の天井のシミをジーッと見つめていた姿が今も思い出されて、切ない。

60代男性(山口県下関市)

田中絹代 思い出のエピソード

皆様からお送りいただいた、田中絹代思い出のエピソードをご紹介いたします。
(個人が特定されるような固有名詞は削除させていただきました。)

エピソードⅡ ~素顔の絹代さん~

 私が未だ1歳の時、田中絹代と大勢の人と一緒に撮った写真がある。多分絹代の母堂が亡くなられて、納骨に下関に帰って来た時のものであろう。絹代は紋付の羽織を着ている。
 私の養母は、東大坪町で独り暮らしていた。生活が苦しかった絹代の家族を助けて、絹代を特に可愛がったらしい。
 律儀な絹代は、女優として成功してから、下関に帰ってくる度に「おばさんには恩があるから」と親しく養母を訪ねていた。
 近所の人は、親類関係だと言っていたが、他人である。
 養母は、絹代は墓参りに来られないからと言って、中学生の私も一緒に、絹代家の墓参をさせられていた。今は向洋町の公園になっているが、そこに市営の墓地があって、絹代家の墓は、我が家の墓より下の段にあって、立派な墓石であった。立ち退きにあって中央霊園と椋野墓地と別々になってしまったが、当時がとても懐かしい。

70代女性(山口県下関市)

 田中絹代さんの印象と出会い
 昭和十二年五月の新譜として、レコード販売された、「すみだ川」の歌の間に、当時松竹の大スターだった田中絹代さんの台詞、「ああそうだったわねえ、あなたが二十あたしが一七の時よ・・・」が入っていた。
 私は十二年三月鉄道教習所を卒業し、下関勤務となったとき、一七才であって、青春と重なり、今もこの台詞は忘れていない。
 翌、十三年秋に封切られた、松竹映画「愛染かつら」の主人公を演じた、上原謙と田中絹代の名前を知らぬ者は、一人もいないといわれたほどでした。当時職場の先輩だったAさんが、子供の頃田中絹代さんと遊んでいたと、自慢げに話をされていた。
 四十八年下関駅長のとき、田中絹代さんが突然駅長室に見えられ、「花、清く、美しく」の色紙をいただいた、その際、Aさんのことをお話したら「ああAちゃん、よくかくれんぼをしましたよ」と、懐かしそうにいわれた。田中絹代さんに思わずお会いできて、まさに駅長冥利に尽きる思いでした。

80代男性(山口県下関市)

 「田中絹代先生の一言」
 僕が4才の頃、敗戦直後の下関の向山町に家族六人六畳一間の間借生活をして居ました。外で遊んでいた時、向こうから白いスーツを着た、光輝く大変美しい女の人が歩いて来て、僕の家に入りました。その人は田中絹代だったのです。遠い親戚関係にあったのです。僕は高校卒業後、映画俳優を夢見て上京し、町工場で働きながら、劇団に通ってました。遂に田中絹代先生に帝国ホテルのロビーで会える機会を得ました。自分の夢を思い切り、先生にぶつけました。じっと聞いて下さった先生は、緩と、確りとした口調で「何の仕事も一緒だけど、役者は唯憧れだけでは出来ないし、続かない、地道な努力、人一倍の努力その努力の度合でやっと食べられるか、どうかの世界ですよ!もう一度良く考えても良いのではないか」と、親の猛反対もあって、暗中模索の中で仕事を色々替えて、自分の仕事を見い出して、20年経た今67才にして、やっと絵描きの道を歩み始めました。

60代男性(山口県下関市)

田中絹代 思い出のエピソード

皆様からお送りいただいた、田中絹代思い出のエピソードをご紹介いたします。
(個人が特定されるような固有名詞は削除させていただきました。)

エピソードⅠ ~心に残る名場面~

 学生時代に名画座で観た、溝口謙二監督、田中絹代主演の『西鶴一代女』には、衝撃を受けた。
 それまで洋画を中心に映画を観ていたが、この作品によって、日本映画にも、こんなに素晴らしい映画があるのかと、認識を新たにした。
 我が思い出の名作の主演俳優、それが田中絹代であった。

50代男性(千葉県)

 全盛期を知らないのですが、ショーケン主役のテレビドラマ、「前略おふくろ様」でお母さん役をやっていらしたのを見ていました。
 子供心に、「なんて嫌な母親なんだろう。」と思ったのを覚えています。
 あれは、「嫌な母親」を演じる老練な女優の姿だったんだろうと今になって、
改めて女優さんの力を思います。

40代女性(東京都)

 世代的に、田中絹代さんというのは、ふつう、名前しかしらないという人が多いのですが、私の場合、前略おふくろ様を見ていて、ぎりぎりの世代です。
あの枯れたおふくろさまは最高でした。

40代男性(愛知県)

 日本映画史で忘れられない女優さんといえば、私は田中絹代さんだと思います。代表される田中絹代さんの数々の日本映画を思い浮かべた時、日本映画の黄金期を思い出します。そんな中で、田中絹代さんの映画にかける一途さ、懸命さ、迫力は、すごいものがあると思います。
 特に私の中で心に残っているものは「雨月物語」「山椒大夫」「西鶴一代女」は、今直、場面場面の中で彼女が浮き上がってきます。彼女が、山口県下関生まれである事は新藤兼人さんが書かれた"小説 田中絹代"の本を見て頂き知りました。とても印象に残る内容でした。溝口監督との関係、そして彼女が亡くなる最後まで、映画に対する、すさまじい執念を感じました。それと新藤監督のあまりにも、心深く書かれていて少し彼女が可哀想にもなりました。それほど引き込まれました。
 彼女が亡くなった事で日本映画の星が、ひとつ消えた事は事実です。
 二度と出てこない女優さんだと思います。

60代女性(神奈川県)

 晩年出演した「サンダカン八番娼館 望郷」の演技は震えがでるほどの演技。本当の女優だなと思います。

50代男性(山口県下関市)

 楢山節考の演技は、今までの田中絹代のイメージを一変させるものでした。
単なる美人女優から真の演技派女優の彼女ならではの作品でした。小説自体が、それまでの日本文化の陰部をさらけ出したものでしたから、彼女の演技に衝撃を受けた一人です。多くの絹代ファンは、新しい彼女を再発見したのではないでしょうか。

50代男性(岐阜県)

 私の田中さんの代表作といえば「愛染かつら」です。上原謙さんとの恋人役が素敵でした。
 これをみてとても看護婦さんに憧れました。
 女性監督ということもあって当時としては珍しく、キャリア・ウーマンでもあった。
 その彼女が60歳代で亡くなられたのはとてもおしいし、残念です。
 彼女を吉永小百合さんが演じられたのも印象深いです。

80代女性(大阪府)

 「前略、おふくろ様」の母親役で、かろうじて知っている程度のファンですが、
当時その姿に故郷の母親の姿がだぶって彼女を画面で視る度に胸が熱くなった思い出があります。

50代男性(福岡県)

 小学生の時見た「楢山節考」の映画を50年以上過ぎた今も
よく覚えております。

60代女性(福岡県)

 日本の名女優・田中絹代のすばらしさを再認識したのは「サンダカン八番娼館・望郷」の映画でした。主演の女優の演技のすばらしさは勿論ですが、老女役で過去の暗い思い出を淡々と語るいぶし銀のような田中絹代の演技に感動すると共に、どこか透明感のある気高い印象を受けました。心に残る演技でした。

50代男性(千葉県)

 私は昭和十三年から十七年頃までに見た映画で強く印象づけられているのは、田中絹代主演「愛染かつら」です。私自身が駆け出しの看護婦であったせいか恋人の医師が出征するのを見送る画面で絹代が涙を振りしぼって「コウゾウさーん」と叫んだ声が耳から消えません。そして私も十七年秋、中国の日本海軍の病舎へ勤務することになりました。
 戦後に映画では「楢山節考」のおりん。七十歳を過ぎても丈夫な歯を持っているのを恥ずかしいと石臼にぶっつけて無理に抜く場面。絹代はこの映画のために本当に自分の歯を抜いたと何かで読んだ気がします。息子に背負われて楢山へ登る姿や、独り山に坐っている姿が今も目に浮かびます。又「サンダカン八番娼館」も忘れ難い映画です。
 サンダカン八番娼館に観る絹代   見事に演ず老醜のさま

80代女性(山口県下関市)

 学生の頃に見た、「サンダカン八番娼館・望郷」栗原小巻扮するライターが、
田中絹代扮する元従軍慰安婦のボロボロの住宅を綺麗にした時の童女の様な喜び様が、今も心に残っています。

50代男性(山口県下関市)

 弟の中に出てくる、彼女は意地悪な継母役。今思えば、あの憎らしい演技力は名女優の為せる業だと最近改めて見直し、感じた。

40代女性(岐阜県)

 数ある作品の中で印象にあるのは溝口健二の雨月物語 山椒太夫 本当に素敵な女優だと思います。並みいる日本映画の中でも群を抜いた完成度で今も新鮮。素敵で可憐な姿は沢山のスター達の中でも一際輝いています。晩年のサンダカン八番娼館の抑えの効いた激しさは忘れられないほど哀しかったです。様々な映画の一つ一つに感謝します。貴女は今も日本一の女優です。本当に有り難う。

40代女性(山梨県)

 拝啓おふくろ様というドラマでのショーケンの母役が忘れられません。田中絹代さんが下関出身とは知りませんでした。独特の訛りがあり、それが魅力でした。

40代男性(神奈川県)
下関市文化振興財団
下関市近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館

下関市立近代先人顕彰館
田中絹代ぶんか館

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