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つぶや記 218
維新革命のこと

   徳富蘇峰が伝記『吉田松陰』(明治書院)を書いたのは、明治41年(1908)です。そのなかで蘇峰は「松下村塾は、徳川政府顛覆の卵を孵化したる保育場の一つなり。維新革命の天火を燃やしたる聖壇の一つなり」と書いています。
   しかし改訂版からは「維新革命」を「維新改革」と訂正しているのです。蘇峰の『吉田松陰』は、岩波文庫にもなっていますが、改訂後の「維新改革」として流布されています。
   蘇峰が革命の表現を改革と改めたのは、あきらかに「革命」という言葉を嫌った明治政府の意向に従ったからだと思われます。
   そのことを裏付けるものは、岩倉使節団の公式記録『米欧回覧実記』にあります。岩倉使節団が米国を回ってヨーロッパに移動し、パリに入ったのは、明治5年(1872)11月でした。
   パリ・コミューンが起こったのは前年3月から5月までですから、パリ市街のあちこちに決起軍と政府軍が交戦した弾痕が生々しく残っていました。凱旋門にも弾丸の痕が見られたことを『回覧実記』は記録しています。
   使節団はコミューンを「乱」「一揆」とし、参加した人民のことを「賊」と呼んでいます。そして次のような記述があります。
   「前年、仏国ノ乱ハ普軍(プロシャ)ノ禍(わざわい)ヨリ『コンミュン』ノ禍最モ猛ナリ。文明ノ国モ、中等以下ノ人民ニ至リテハ、猶冥頑(めいがん)ニシテ鷲悍(しかん)ナルヲ免レズ」
   フランス革命からすでに1世紀近い歳月を経たそのころ、政府に抵抗するパリの小市民・労働者が民衆軍を結成し、武装蜂起したパリ・コミューンは、頑迷な中等以下ノ人民の反乱としてたちまち抹殺されたのです。
   岩倉使節団は、幕府を打倒した反乱軍の主要人物で構成されています。その彼らがいう「中等以下ノ人民」を原動力として成し遂げた維新革命から数年後、早くも自分たちの政治権力を脅かす人民の存在を、コミューン直後のパリで痛感したことをくわしく記録しているのでした。
   ところで『明治維新という過ち』という本は、さすがに山口県下でベスト・セラーにはなりませんが、広告を見ると順調に版を重ねているようです。維新から150年、革命を改革と読み換え、江戸アンシャン・レジームを追慕する地層がこれからも地衣類のように広がっていくのでしょうか。
                                                                               (古川 薫)

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