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つぶや記 203
パラオでのできごと

   両陛下のパラオご訪問でメディアはにぎわったが、どれもそのことに集中して、ミクロネシアの海に浮く人口2万余の共和国については多くを語らなかったようです。
   先の大戦ではここのペリリュウー島で、日本兵1万が玉砕した忘れられない悲惨な事実はそれとして、パラオの人々がなぜあのようにも日本人に好意的なのか。パラオのラジオ局が深夜放送でながす戦前の日本の歌謡曲を聴くのはお年寄りだけでなく、若い人も日本の「なつメロ」を歌っているのです。あるパーティーのアトラクションで、娘さんのグループが『妻恋道中』を合唱していました。「見よ東海の空開けて--」というのもありました。
   わたくしは1976年(昭和51)の夏、パラオのコロール島に1週間ばかり滞在しました。パラオで人魚(ジュゴン)を捕獲し、下関水族館で飼育するという企てがあり水産大の松井魁博士らが出向くという。そのことを東京の雑誌社に話したらぜひ取材をというので、同行することにしたのです。
   当時、パラオは独立運動が盛り上がり、米国もしぶしぶ承認せざるを得ぬ状況にあり、福岡のアメリカ領事館でビザをもらうのに骨がおれました。「むこうで独立をあおるような行動があれば即刻退去」という一札を入れたりもしました。
   パラオの独立はそれから18年後の1994年ですから、パラオの人々もがんばったのですね。ところでジュゴンは獲れませんでした。いや獲らせてもらえなかったのです。パラオの大酋長はOKだったのですが、アメリカが難色をしめしたためでした。
   人魚はあきらめてパラオの取材に力を入れましたが、とにかく親日的でわたくしたちは大歓迎でした。サンゴ礁でできたコロール島の湾は、小さな島(ロック・アイランド)がちらばる箱庭の池のようで、戦前ここにやってきた日本人は「パラオ松島」と呼んでその景観を絶賛しました。
   こんど両陛下はペリリュウー島の慰霊碑参拝を済まされ早々の御帰国でしたが、パラオ松島はごらんになったでしょうか。この湾で真珠とりの日本人も大勢死んでおり、大規模な日本人墓地もあります。戦死者だけでなくたくさんの日本人がパラオに骨を埋めているのです。
   わたくしたちは激戦地ペリリュウー島に行って、英霊に花をたむけようということになり、晴れた日にモーターボートでむかったのですが、天候が急変、あわてて引き返し、ついに望みを果たせませんでした。両陛下が参拝されるテレビの画面は感慨ひとしおでした。代参していただいたなどと不埒なことを思ったりもいたしました。
   さて、パラオの島民がどうして親日的なのか。委任統治というのは、いわば植民地のようなものです。単に施政がよかったということではないのです。ではパラオで何があったのか。話が長くなりますので、次回に回します。
                                                                               (古川 薫)

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