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つぶや記 135
不気味な関門海峡

 日本海、東シナ海など外界方面で、不穏な動きがあると、関門海峡を航行する自衛艦の影が目立つのを、以前から気づいていました。ああ、やはり海峡だなあと思ってしまうのです。
 古くは源平合戦、大友・毛利の門司城合戦、九州征伐の豊臣秀吉、4カ国連合艦隊来襲、第2次大戦の米空軍による機雷投下など、関門海峡の歴史は戦争でつづられています。
 米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが、岩国から沖縄にむかう途中、関門海峡上空を通るらしいと聞いて緊張しました。いちおう輸送機ということになっていますが、最近テレビのBSでアメリカの近未来映画を観ていたら、激戦の戦場をオスプレイが縦横に飛んでいるので、これはやはり戦闘機だなと、変に合点してしまいました。
 ところでNHK歴史ドラマ『平清盛』は、後半を過ぎて、平氏が墓穴を掘ることになる福原遷都の段に入りました。清盛は死んでいますから、どこまでやるのか知りませんが、関門海峡での源平合戦間近です。この源平合戦のとき、周防・長門の情況はどうだったか。それを考えてみるのも一興です。
 この地域はまだ大内氏の防長統一前で、大内・豊田・厚東の3豪族鼎立時代です。2大勢力は周防の大内と長門の厚東です。長門の守護は厚東氏で、本拠は宇部の霜降山城ですが、守護屋形は長府においていました。
 このころ大内氏の当主16代盛房は、兄弟2人とともに流罪に処せられていました。おそらく清盛の宋貿易を妨害したためだと、いわれています。
 九条兼実の日記『玉葉』慶応2年(1170)9月20日、後白河法皇が清盛の福原の別荘に行幸し、そこで宋人と会ったことが記載されています。また同じく『玉葉』治承2年(1178)10月、大内盛房らが恩赦により帰国したことが載っています。源平合戦は7年後のことです。
 平家に恨みを抱く大内氏、源義経の誘いに乗った長門守護厚東氏が、源氏に味方したことが、源平合戦での源氏勝利に大きく貢献しました。今もむかしも、地方が突破力、決定力を持っていることは、後世の明治維新でも立証されました。
                                    (古川 薫)

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